どころが悪かったために次のような結果になってしまった。

     三五

 その夜は、船長にとっては、全く不愉快きわまる長い夜であった。その夜は、ボースン一行にとっては、全く愉快きわまる短い一夜であった。そして、おもての者たちにとっては、それは、灰色に塗りつぶされた、懲役囚の一夜のように惰力的な一夜であった。
 その夜が明けると、ボースンらは、陸地近くの、日本海特有のまき浪《なみ》の中から、その伝馬《てんま》の姿を見せた。浪は、その波のような色と幅を持って、沖の方から陸地の方へ巻きころがして行く反物《たんもの》のように見えた。伝馬は、陸近くでは、よくこの浪に見事にくつがえされるのであった。伝馬は巻き込まれるように見えた。が、すぐにヒョコリと現われた。芥子粒《けしつぶ》のような伝馬は、だんだん大きくなって来た。
 よせばいいのに、ボースン――海軍出のおもしろい男だった――は、伝馬の舳[#「舳」は底本では「軸」と誤記]《へさき》につっ立って、その功を誇りでもするように、ハンケチを振っていた。
 それは、客観的には浦島太郎が、龍宮の乙姫《おとひめ》様のところから、帰って来るのではないかと思われるほど、美しく、詩的であった。
 黒青い、大うねりのある海には、外には一|艘《そう》の船もなかった。空気は甘く、恋人の肌《はだ》のようににおった。空は海一杯を映した鏡のようだった。伝馬の背には、白い砂山の続きの間から、松と屋根とが延び上がってのぞいていた。
 一切が澄みわたって、静かであった。それは一九一四年のことではなくて、紀元二百年の日本海と名のつかない、前の海面であった。
 そしてボースンは乙姫様からもらった箱をさげて、ハンケチを振っていた。
 ボーイが、船長にボースンの伝馬が見えると報告した時の、彼の憤《おこ》り方の気持ちや、態度を説明するのには、匙《さじ》を投げる。
 彼は、ドイツ製の双眼鏡をオッ取って、ブリッジに駆けのぼった。彼の双眼鏡は伝馬を拡大した。
 「図々《ずうずう》しいにもほどがある、やつはハンケチを振っている!」彼はうなった。
 水夫たちも、火夫たちもデッキへ出て、悲惨な遊蕩児《ゆうとうじ》たちをながめた。伝馬は近づいた。大工は鼻歌をうたっていた。彼は、また声がいいのだ。それは、だれでも聞く者を、母にすがりついて乳を飲んでいたころの、甘い追憶を誘い出さずには
前へ 次へ
全173ページ中122ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
葉山 嘉樹 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング