つして、それを漕いで行った。
 そして、そのまま、どこへ行ったか、見えなくなってしまった。カッターはそのあとでおろされた。そしてそれは、サードメーツ、チーフメーツまで乗り込んで、ほんとうに漕ぎ方の練習をやった。「伝馬は」といって、チーフメーツはカッターの上へ立って方々をながめたが、それは見えなかった。
 カッターは引き上げられた。そして日は暮れた。伝馬はもちろん帰って来なかった。伝馬の連中が、もし、船長を連れて行ってるならば、このような問題は起こらないのだったが、船長は船に残っていたのだ。
 船長は、たたき落とされた熊蜂《くまばち》の巣みたいに、かっとなって憤《おこ》った!
 自分の妻君の姦通《かんつう》をかぎつけた亭主のように、その晩船長は一睡もしなかった。そして、そのおかげで、ボーイも眠れなかった。というのは、船長は、のべつに、ベッドから飛び上がっては、「ボースンはまだ帰らないか、帰ったらいつでもいいから、すぐにおれのところに連れて来い、わかったか」だの「伝馬はまだ見えないか」だのと、怒鳴り続け、ベルを鳴らし続けたからである。
 「まるで狂人病室だ! 看護人はたまらん」ボーイは背中をボリボリかきながらこぼした。
 全く船長にしてみれば、その誇りを傷つけられ、自分の優越感を裏切られ、自分の特権を蹂躙《じゅうりん》され、ことに彼さえもまだ遠慮していたのに、「女郎買い」に行ったことは、彼を「愚弄《ぐろう》」することはなはだしいものであった。それは、昔ならば「罪まさに死」に相当すべきであった!
 彼は時々ベッドから、飛び上がっては、ボーイを怒鳴った。それは足へ煮えたぎった湯でもかかった時のように飛び上がるのだった。そして、彼は飛び上がるたびごとに、「きゃつら」に対する復讐《ふくしゅう》を一層残忍にしようと考えるのだった。
 ボースン、ナンバンらが「出し抜いて」直江津の、自分自身の家を一軒独立に構えている女郎買いに行ったことは、憤怒の余り、船長を発作的の熱病患者みたいにした。
 わずか、しかし、このくらいの事で、何のために、それほどまでに船長が、憤《おこ》らねばならなかったか、それは、だれにもわからないのだ。それほどに憤慨しなければならない「理由」を、いまだに「発見ができない」とおもての者たちもいっているのだ。それは多分、「虫の居どころ」が悪かったのだろう。そして、虫の居
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