をしたことを、今、言われて見て、思い出すには出したのであった。そして、それは手当てをしなければならないであろう。――が、――それはこんな場合ではもちろんないはずだ! と彼は思ったのであった。
一体それはいつのことだ。横浜でやるべきではないか、今ごろになってそんなことをいうのは因縁をつけるというものだ! しかし、これは彼の思い違いであった。横浜では船長に話す間がなかったし、それに、チーフメートは、船長に相談してからにするというので、横浜では、フイになったのであった。
船長は、登別の温泉に、彼女――それは全く美しい若い女であった。そしてそれは、白樺《しらかば》のように、山のにおいの高い、澄んだ渓流のように作為のない、自然人であった。――をしっかりと、あのあらゆる力と情とをこめて、彼女を抱き締めることの回想と予想とで、血なまぐさい、汚《よご》れた、現実的な、ボーイ長の問題などは、その余地を頭の中へ置き得ようはずがないのであった。
「どうしても、それが必要なら、それはチーフメーツがうまく片をつける事柄なんだ!」船長は、ズボン――押し出してしまったあとの絵の具チューブかなんぞのように、ピッタリ一|重《え》にくっついた――の中へ足を通した。
「北海道じゃちょっと類がない、すがすがしい気持ちなもんだ。ズボンの折り目の立っているのは」彼はちょっと足を前へ踏み出すように振って見た。「上等」それで彼のズボンの試運転は通過した。
彼は十八の少年のように急ぎながら、彼女に与える指輪を、自分の小指へ光らしながら、理想的に船長らしい、スッキリした立派な服装と、その姿勢とを、サロンデッキへ現わした。
そこには、その寒さにもかかわらず、ストキとボースンとが立って、彼の出て来るのを待っていたのであった。彼はハッとして立ち止まった。
ボースンは、とっつかまえられた、コソ泥棒みたいに、しきりに尻《しり》ごみしながら、ストキにつかまれ、励まされて待っていたのであった。が、彼は一体、何をいえばいいのだ! 彼には言うべきことはなかった。けがをしたのは見習いであって、女房子を持った哀れな、老いた彼ではなかった。「おれはこの船をほうり出されたらどこへ行くことができるんだろう。橋の上か、墓場かだけじゃないか、おれは今は、おれのためよりも、子供らや家内のために、働いているだけのものだのに、おれは、……ス
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