ど》すのであった。
それは一九一〇年代の事であった。英領植民地のシンガポーアの、マレーストリートとバンダストリートとの二街に、赤色|煉瓦《れんが》の三階建ての長屋が両側二町余にわたって続いていた。その長屋は全部日本人の娼婦《しょうふ》のいる家であった。そこは、わが国の大都会、たとえば、横浜とか神戸とかにおける遊郭よりも、数も多く、規模もはるかに大きかった。そのころは船員はゴロツキが多かった。それはほん者のゴロツキであって、陸を食いつめた博徒《ばくと》などが、船乗りになっていた。そして、船長などというのもいかがわしいのが多く、これらの船員と結託しては密航婦を、シンガポーアだとか、ホンコンだとか、またはアントワープだとかの遠方までも、大仕掛けで輸送したものだ。その運賃は高率であって、それに食費は向こう持ちであって、おまけに船員が航海中最も悩むところの性欲に対して、密航婦を積む以上、好都合なことはなかった。
密航婦はどんな状態でも、我慢しなければならなかった。哀れな彼女らは、フォーアピークの中で、窒息して死んでしまったほどにも、我慢しなければならなかった、彼女らはビール箱の中で五昼夜も、いいようのない状態で、半死のどたん場まで我慢しなければならなかった。
ことにチエンロッカーと彼女らとの関係は惨鼻《さんび》をきわめた。それは、密航婦を船長とボースンとが共謀で、チエンロッカーの中に隠したのであった。チエンロッカーは、出帆したが最後、入港までは用のないところなのだ、その暗室の鎖の上へ彼女らは、蓆《むしろ》を敷いて寝ていたのだ。彼女らはシンガポーアで上陸して、その遊郭に売られるのであった。水火夫らは毎夜、そのチエンロッカーの蓋《ふた》をあけてやった。彼女らは、運動に出された禁錮囚《きんこしゅう》のように喜んで、おもての船員たちの室へ来て出してもらった礼として、(以下十一字不明)。
彼女らにとっても、その航海はビール箱や、フォーアピークなどよりも、**であったに違いなかった。船員たちは浮かれ気味の航海を続け、彼女らは一日も早く、動揺しない大地を踏みたいとねがっていた。
ところが、ホンコン入港の時に、密航婦を、フォーアピークへ移しかえることを忘れなかったボースンは[#底本では「忘れなかった。ボースンは」と誤記]、何と考え違いしたものか、大切のシンガポーアで、有頂天になり過
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