ぎていて、密航婦を、チエンロッカーから出すことを忘れてしまった。
 そこで状態は、投錨《とうびょう》の際に一度に悪化した。鎖の各片、人肉の各片、骨の各片、蓆《むしろ》の破片ともつれつ、くんずして、チエンホールから、あるいは虚空《こくう》へ、あるいは鎖と共に海へ、十三人の密航婦を分解、粉砕して、はね飛ばしてしまった。船首甲板に立ち並んでいたボースン、大工はもちろん、水夫、チーフメーツらは肉醤《にくしょう》を頭から浴びた。
 波田は、チエンロッカーが、そんな歴史を持っていることによって、その困難な労働をなお一層不快ないやな、堪《た》え難いものにした。それを思い出すと、彼は全くチエンロッカーにはいることが、何よりもいやであった。そして、はいって来る鎖の一片一片が、まるで、自分をねらって飛んででも来るように感じるのだった。
 彼は肉体的にはもちろんであるが、精神的にもこの上ない疲労を感じて、チエンロッカーから上がった時はまるで溺死《できし》しそこねた人のようであった。
 その仕事着には海底の粘土が、所きらわずにくっついていて、彼の手や顔は、それでいろどられて、くまどりしたように見えた。顔の色は劇動のために土色であった。心臓はむやみやたらに、はね上がった。頭が痛く、目がくらんで、彼は、しばらくデッキへ打《ぶ》っ倒れるか、その辺にあるどんなところへでも、打《ぶ》っ倒れるのが例であった。
 だれかが、このチエンロッカーにはいらなかったならば船は動き得ないのであった。波田は、破れそうな心臓に苦しみながら、どんなに多く与え、少し得ているかを思わずにはいられないのであった。
 「おれたちは死ぬほど苦しんで、こんなありさまだのに、遊び抜いて、住みもしない別荘を、十も持った人間が、この船を持ってるのだ!」
 万寿丸はかくして桟橋へ横付けになることができた。
 桟橋の上は、夕張炭田から、地下の坑夫[#「坑夫」は底本では「抗夫」と誤記]らの手によって、掘り出された石炭が、沢山の炭車に満載されて、船の上の漏斗《じょうご》へ来ては、それを吐き出して帰って行くのだった。
 数十間の高さに、海中に突き出している高架桟橋上の駅夫や、仲仕の仕事は、たとえように困るほど寒いものに相違なかった。
 人はストーブにあたって、暖かいコーヒー、暖かい肉を摂《と》るべき時候であった。そして多くの労働者は、それを作り出
前へ 次へ
全173ページ中101ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
葉山 嘉樹 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング