彼は思いかえした。
「さよなら」彼はそこを飛び出した。そして今までより少し彼はあわてて歩いた。彼は歩きながら、これほどの船つき場でありながら、一軒もサンパン屋が店を出していないことを不便がった。「靴でさえ中古の夜店を出してるのに――」彼は全く残念であった。
彼はその日一日、ありとあらゆる質屋で断わられ、貸舟屋で断わられ、全くみじめな気持ちになってしまった。
「伝馬は売れねえや、急にはだめだな、だが、おやじになら売れるだろう」小突きまわされた犬のように、身も心もヘトヘトになりながら、彼はボーレンのおやじを目標に持って来た。彼には絶望がなかった。
彼は夜十一時ごろ、ボーレンの表戸をあけた。
おやじは起きていた。そして、彼が上がって行くのをじろりとながめた。三上は、長火鉢の前へ、すわって、煙草に火をつけた。そこは六畳の間であった。すみの方には、船員が二人《ふたり》寝ていた。
おやじはしばらく黙って、これも煙草を吸っていた。
「おやじさん。おらあ今日下船したぜ。また、しばらく頼むよ」三上は切り出した。
「下船した。で、また船に乗る気なのかい」おやじは妙なふうに返事をした。
船乗りが、下船してボーレンに休めば、次の船に乗るまでの間、そこに休んでその間に、口をさがすのが、その唯一の道であった。
「ああ、万寿丸にゃもうあきたからなあ、今度はほんとうの遠洋航路だ」どうも、だが、おやじめ様子が怪しいぞ、今日万寿に行ったんじゃないかな、と思ったが、できるまで空っとぼけた方がいいと思いついた。
「そうか、遠洋航路もいいだろう。だが、遠洋航路は履歴が美しくないといけないな。おまえの手帳をちょっと見せな、預かっとこう」
手練の手裏剣見事に三上の胸元を刺した。
「あ! 船員手帳!」と驚いて三上は膝《ひざ》をたたいた。「船に忘れて来たぞ」
「冗談いっちゃいけない。三上、おれは今日万寿で、すっかり様子を聞いて来たんだぞ。いい加減にしろ、伝馬まで乗り逃げやりやがって。どうしたい伝馬なんか」
「ええ! こうなりゃ癪《しゃく》だ、いっちまえ、畜生! 伝馬はつないであるよ」
「どこにあるんだい」
「おやじのサンパンのつないであるところさ」
「何だってあんな邪魔っけなものを、のろのろと漕《こ》いで来たんだい」
「売り飛ばすつもりなんだ!」
「買い手はあるつもりかい」
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