だ。たとえば、人間の一人々々が、誰にも云わず、書かずに、どの位多くの秘密な奇怪な出来事を、胸に抱いたまま、或は忘れたまま、今までにどの位死んだことだろう。現に私だって今ここに書こうとすることよりも百倍も不思議な、あり得べからざる「事」に数多く出会っている。そしてその事等の方が遙《はるか》に面白くもあるし、又「何か」を含んでいるんだが、どうも、いくら踏ん張ってもそれが書けないんだ。検閲が通らないだろうなどと云うことは、てんで問題にしないでいても自分で秘密にさえ書けないんだから仕方がない。
だが下らない前置を長ったらしくやったものだ。
私は未《ま》だ極道《ごくどう》な青年だった。船員が極り切って着ている、続きの菜っ葉服が、矢っ張り私の唯一の衣類であった。
私は半月余り前、フランテンの欧洲航路を終えて帰った許《ばか》りの所だった。船は、ドックに入っていた。
私は大分飲んでいた。時は蒸し暑くて、埃《ほこり》っぽい七月下旬の夕方、そうだ一九一二年頃だったと覚えている。読者よ! 予審調書じゃないんだから、余り突っ込まないで下さい。
そのムンムンする蒸し暑い、プラタナスの散歩道を、私は歩
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