緑衣の女
松本泰

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)泉原《いずみはら》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)砂|塵《ほこり》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)うつら/\日を送っている
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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        一

 夏の夕暮であった。泉原《いずみはら》は砂|塵《ほこり》に塗《まみ》れた重い靴を引きずりながら、長いC橋を渡って住馴《すみな》れた下宿へ歩を運んでいた。テームス川の堤防に沿って一区|劃《かく》をなしている忘れられたようなデンビ町に彼の下宿がある。泉原は煤《すす》けた薄暗い部屋の光景を思出して眉を顰《ひそ》めたが、そこへ帰るより他にゆくところはなかった。半歳近く病褥《とこ》に就いたり、起きたりしてうつら/\日を送っているうちに、持合せの金は大方|消費《つか》って了《しま》った。遠く外国にいては金より他に頼みはない。その金がきれかゝったところで、いゝ工合に彼の健康も恢復《かいふく》してきた。彼の目下《もっか》の急務は職に就く事であった。彼はこの数日努めて元気を奮い起して職を求め歩いた。彼は以前|依頼《たの》まれて二三度絵を描《か》いたバルトン美術店の主人を訪ねて事情を打明けたが、世間の景気がわるいので何ともして貰《もら》う事は出来なかった。その時泉原が不図《ふと》思い浮べたのは同店の顧客《とくい》のA老人であった。老人は愛蘭《アイルランド》北海岸、ゴルウェーの由緒ある地主で、一年の大半は倫敦《ロンドン》に暮している。若い頃には支那にも日本にもいった事があるという。彼は東洋美術の愛好者であった。泉原はバルトンの店で屡々《しばしば》A老人と顔を合せた。A老人は泉原から絹地に描いた極彩色の美人画を買った。泉原はその折の事を思出してA老人を訪ねる気になったのである。老人の住居《すまい》は、噂に聞いた身分に似合《にあわ》しからぬ川向うのP町で、同じように立並んだ古びた四階建の、とある二階の全体を間借りしていた。泉原は老人に会い、絵を描く事によって生活の保証を得る相談をしたいと思ったのである。が折悪《おりあ》しくA老人は二十日程前から旅行中で、いつ帰って来るとも知れぬという事であった。
 泉原は家主の婆さんからその話をきいて、すっかり気を挫《くじ》かれて了《しま》った。稍《やや》明るくなりかけていた気持が大きな掌《たなごころ》で押えつけられたように、倏忽《たちまち》真暗になって了った。
 泉原はデンビ町の下宿へ帰る積りであったが、どうした訳か横丁を曲らずに、幅の広いなだらかな、堤防《エンバンクレメント》を歩いていた。両側の街樹は枝葉を伸して鬱蒼《うっそう》と繁っている。目をあげると、潮の満ちた川の上を、白鴎《かもめ》の群が縦横に飛びまわっている。夏の夕暮は永く、空はまだ明るかった。
 泉原は人気のない共同椅子《ベンチ》に疲労《つか》れた体躯《からだ》を休めて、呆然《ぼんやり》と過去《すぎさ》った日の出来事を思浮べた。斯《こ》うした佗《わび》しい心持の時に限って思出されるのは、二年|前《ぜん》彼を捨てゝ何処《どこ》へか走ったグヰンという女であった。彼女は泉原の不在《るす》の間に、銀行の貯金帳を攫《さら》って行方《ゆくえ》を晦《くら》まして了ったのである。泉原は女の不貞な仕打を憎んではいるけれども、そのような事になったのは彼女の虚栄からホンの出来心でやった事で、決して心から悪い女ではなかったと、今でも確《かた》く信じている。その後女はどうなったか、泉原はすこしも知らなかったが、彼が彼女を忘れ得ないように、女も何彼《なにか》につけ、泉原を忘れ得ないであろう。それ程二人には深い様々な記憶があった。
 泉原は四辺《あたり》が全く暗くなる迄《まで》気がつかずに共同椅子に腰をかけていたが、フト我に返って立上った。彼はいつの間にか点《とも》された蒼白い街燈の下を過ぎて、低い空を赤く染出している賑かな町の方へ歩《あるき》出した。
 兵舎の傍《わき》から斜に大通りをはいってゆくと、じきにV停車場《ステーション》へ出た。下宿へ帰るには稍《やや》迂回《うかい》であったが、停車場《ステーション》の構内をぬけて電車道へ出るところに、伊太利《イタリー》人の経営している安い喫茶店がある。そこで晩飯代りに一寸《ちょっと》したものを口に入れてから帰ろうと思ったのである。
 V停車場は乗降客でゴッタ返していた。酒場《バー》の前を過ぎて、時間表の掲《かか》げてある大時計のわきを通りかゝった時、泉原は群集の中に何ものかを見つけたと見えて、呻くような低い叫をあげてハタと足を停《とど》めた。彼はそれでも自分の目を疑うように、二三歩改札口へ馳《はし》り寄った。
「そうだ確かにグヰンに違いない。」彼は口の中で呟いた。
 丁度改札口を出てゆく三人づれがあった。真中のは濃い緑色のきものを着た髪の毛の黒い若い女で、左右には五十近いでっぷりした婦人と、背の高い中年の男がいた。
「もし/\鳥渡《ちょっと》待って下さい。」と泉原は数間離れたところから夢中で声をかけたが、三人連は振返りもせず、そのまゝ歩廓《プラットフォーム》を歩いていった。泉原の周囲《まわり》の人々は一斉に振返って、奇声をあげた小さな日本人を不思議そうに瞶《みは》っている。泉原は突嗟《とっさ》の間に雑沓《ざっとう》の間を縫ってM駅行の切符を購《か》った。そして周章《あわただ》しく改札口を出るなり、三人連の後を追った。

        二

 出札口で手間取った為に、泉原は三人連の一行を見失って了った。間もなく汽車は動出した。停車場へ着く度に、若《も》しや彼等が下車しはせぬかと、泉原は注意深く窓から首を出して、下車する人々の群を見張っていた。途中何事もなく、終点のマーゲート駅に到着したのは、暗くなってから一時間も経過《た》った頃であった。車がまだ全く停止《とま》りきらないうちに、彼は歩廓に飛下りて、逸《いち》早く改札口に向かったが、彼の乗った車輛は最後車の次であった為に、改札口を出たときは、既に一団《ひとかたま》りの人々が構外へ吐出されていた。併《しか》し相手は婦人づれであるから、確に自分の方が先に相違ないと思って、彼は工合のいゝ物蔭に立って眼を輝かしていた。
 泉原はなけなしの金を費して、わざ/\マーゲートまで来ながら、とう/\グヰンの姿を見失って了《しま》った。恐らく彼女の一行はこのように遠《とお》はしりもせず、V停車場《ステーション》を離れると、じきに郊外の小駅《しょうえき》で下車して了ったものであろうか、それとも同じ終点で下りたが、彼より先に構外へ出た人々のうちに交っていたのかも知れぬ。捕えたらあゝも云おう、斯《こ》うも云おうと意気|組《ぐ》んでいた泉原は、張詰《はりつ》めた気がゆるむと、一時に疲《つか》れを感じてきた。マーゲート駅で下車した人々は停車場《ステーション》を立去って、大《おお》風が吹過《ふきす》ぎたあとのような駅前の広場に、泉原は唯ひとり残された。彼は何処へゆくという的途《あてど》もなく、海岸通りへ歩を運んだ。
 装飾電燈《イルミネーション》をつけた五階建、六階建の宏荘な旅館《ホテル》が、整然として大通りのペーブメントに沿ってすっくりと立並んでいる。美しい服装《なり》をした婦人達の姿がチラ/\と見えていた。
「Q旅館か、二年前に始めて英国へきたその時の夏には、この旅館に宿泊《とま》った事がある…があとにも先にも、それが一ぺんきりに違いない。」と泉原は呟《つぶや》いて、ふと着古し膝の丸く出た服のズボンを見下したが、過去《すぎさ》った記憶から遁《のが》れるように、足早にそこを立去った。海岸通りには涼しい風が街樹の緑をサラ/\と鳴している。音楽堂では賑かなコンサートをやっていた。泉原はそこまで歩いていったが、汽車の着いた時間からいっても、グヰンの一行が海岸にいる筈《はず》はないと思ってもとの道へ引返した。夕方|倫敦《ロンドン》のV停車場で、グヰンを見かけて、こんなところまであとを追ってきたが、女は果して尋《たず》ねるグヰンに違いなかったろうか、と彼はいま幾分か不確な心持になっていた。仮令《よし》それがグヰンであったとしたところが、彼女は自分をすてゝ逃げたのではないか。貯金帳をもって走ったという事も、自分から告訴する考えもなく、また彼女に賠償させようという気もない以上、彼女の後を追うべき必要は更にない訳である。泉原はそう思って、我ながら斯《そ》うして女のあとを追ってきた愚かしさをはがゆく思った。
 一時に昼食をとって以来、何も口へ入れなかった泉原は頻《しき》りに空腹を覚えてきたので、本通りの裏手へ入って、入りいゝ飯屋《めしや》をさがそうと思った。彼は小さな商店の立並んだ裏町を曲りくねって、海岸へ通ずる道路幅の広い大通りへ出た。そして間をおいて青白い瓦斯燈《ガスとう》の点《とも》っている右側の敷石の上を歩いてゆくと、突然前方の暗闇から自動車が疾走《はし》ってきて、彼の横を通り過ぎた。彼はびっくりして目をあげた瞬間、彼は確かに車内にいた三人の姿を認めたのである。それはいう迄もなく、V停車場で見かけた一行で、五十恰好の婦人を真中に、モーニング姿の男と、グヰンが腰をかけていた。グヰンは泉原の立っている方に近い、向って右手の席に就《つ》いていた。自動車はまたゝくうちに遠くなって、闇中に姿を没して了った。
 泉原は唖然として暫時《しばらく》路傍に立竦《たちすく》んでいた。V停車場で見かけたのは確かにグヰンである。それにしてもグヰンは何故《なにゆえ》に都の避暑客の集っているこのマーゲートへきたのであろう。而《しか》も一時間も前に同じ汽車でこの土地に着いていながら、今迄|何処《どこ》にいたものであろう。そして最も訝《おか》しいのはグヰンの服装が停車場で見た時と異《ちが》っていた事である。彼女は白いブラウスの上に、真紅《あか》い目の醒《さ》めるようなジャケツを引《ひっ》かけていた。それよりも尚《なお》泉原の心をひいたのは、心持ち唇をかむようにして、じっと空間を見据えている彼女の横顔であった。泉原は一緒に暮していた経験から彼女の癖をよく知っていた。
「そうだ。グヰンはこの土地で何事か大事な事を謀《たくら》んでいるに違いない。」と彼は思った。彼女は何処へゆくか知らぬが、服装《みなり》から考えても今夜はこの土地に宿《とま》る事は明かである。今更自動車の後を追ったところで、的《あて》がない訳だ。広くもないマーゲートの事であるから、明日《あす》になってから彼女の住居《すまい》を突止める事にしようと思った。
 彼はとある横町でようやく粗末な料理店を見付けた。
 食事時間を大分過ぎていたので、僅《わずか》に数える程の客があちこちの席に就《つ》いている計《ばか》りであった。卓子《テーブル》を三|側《かわ》おいた彼の筋向うには、前額の禿上った男が頻《しき》りに新聞紙を読耽《よみふけ》っていた。帳場に近い衝立の陰には、厚化粧をして頬紅《ほおべに》を塗った怪しげな女が、愛想笑いをしながら折々泉原の方を振返っていた。女は長い巻煙草《シガー》を細い指先に挟んで、軽い煙をあげている。隅の卓子《テーブル》では二人の青年が鼻を突合せて何事か熱心に喋合っていた。
 泉原は髪の毛のちゞれた女給仕《ウェートレス》の運んでくる食物を黙々として食った。
 食事が済むと、彼は幾許《なにがし》かの勘定を払って戸外《そと》へ出た。そして安い旅館《ホテル》をさがす為に、場末の町へボツ/\と歩をむけた。
 下町の道路は狭隘《せま》く、飛び/\に立っている街燈が覚束《おぼつか》ない光を敷石の上に投げていた。夕暮が永かった割に、日が暮れると急に夜が更《ふ》けたように、人通りが稀になった。泉原は鉄柵を鎖《とざ》した雑貨店の角を曲りかけた時、
「モシ、モシ。」と背後《うしろ》から呼ぶ声をきいた。泉原は悸乎《ぎょっ》として振返ると、中折帽を冠《かぶ》っ
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