た大男が、用ありげにツカ/\と寄ってきた。
三
「失礼だが、燐寸《マッチ》の持合せがあるなら貸してくれませんか。」男は泉原の顔をジロ/\と覗込みながら、幾分か声を和《やわら》げていった。泉原はポケットを探って無言のまゝ相手に燐寸を渡した。見るとそれは最前食事をしていた時、彼の筋向うの卓子で新聞を読んでいた男であった。
「私は先刻《さっき》料理店で貴方《あなた》をお見かけしたと思いますが。」と泉原は恐る/\いった。
「その通りですよ。君はこの土地に初めてと見えますね。この辺は物騒でよく追剥が出没するですよ。昨夜も避暑にきている若いアメリカ人の被害があったです。君はこれから何処《どこ》へ行こうとなさるのかね。」
「何処へゆくという目的《めあて》はありません。私は日本人の画家で、先刻|停車場《ステーション》へ着いた計《ばか》りです。」
「そうらしいと思ったです。見たところ土曜から日曜にかけての休日を利用して海岸に保養に来たという様子もなし。」相手は背の低い泉原の服装《みなり》を見廻しながらいった。
「私は上等な旅館へゆきたくなく、ホンの一夜を凌ぐ為に安い宿を探しているのです。」
「じゃア私の家《うち》へ来たらどうだね。特別にお構いする事は出来ないが、丁度二階に使わない部屋があるから、そこなら提供してもいゝ。」相手はひとりのみこみをして泉原の答も待たず、先に立って歩出した。
「先刻《さっき》もいった通り、近頃この界隈で頻々と追剥があるので警戒していると、最前から君が彼方《あっち》へいったり、此方《こっち》へいったりしている様子が不審に思われたのです。私はマーゲート署の探偵ですよ。私は日本語は出来ないけれども、家内は東京、横浜それから日光へいった事があるので、日本語を話します。日本人のお客を連れて帰れば家内は喜びますよ。」
泉原は半ば煙に捲《ま》かれたかたちで、勧《すす》めるまゝに相手の後に蹤《つ》いていった。探偵の家は町はずれの丘の上に並んでいる小ぢんまりとした二階建の一つであった。
ギル探偵夫妻は珍らしい東洋の客を歓迎して、二日や三日なら遠慮なく宿《とま》るがいゝと頻《しき》りに勧めた。ギル夫人の日本語はてんで問題にならない、僅《わずか》に「有難う」とか、「お早う」とかを知っている位の程度であったが、それでも外国人の口から日本語をきくのは嬉しかった。泉原は最初のうちこそ堅くなっていたが、段々心|易《やす》い気持になって、彼がマーゲートへ来た理由を打明けて了《しま》った。
「その女は二年前に君の金を拐帯《かいたい》して逃げたというのかね。女がマーゲートへ下車したという事は間違いないかね。」
「私は現にH町の大通りを歩いていた時、彼等一行の乗っていた自動車に行会ったのです。それから不思議だと思ったのは、V停車場《ステーション》で見た時と、先刻とは全く別な服装をしていた事です。停車場へつくなり、一旦|旅館《ホテル》へいって、それから自動車で出直したといえばそれまでの話ですが、第一H通りから北へかけて、旅館らしいものがありますか。」
「無論ないさ。H通りからK町一帯は住宅地で、旅館は海岸にある計《ばか》りさ。それからどうしたね。」ギルは興味を覚えてきたらしく、膝を乗出してきた。
「私がその自動車に行会ったのは、H通りの中程で、飾窓に青く電燈のついている店から二十間計りいったところでした。自動車は何処《どこ》へいったのかその先は分りません。」
「青い電燈のついているのはSという雑貨屋だ。よし/\明日は幸い非番だから、旅館をさがしてやろう。どこの旅館へいっても、支配人や番頭とは顔馴染だから、旅館の滞在客を調べるのは造作ない。私の考えでは彼等は海岸通りの旅館へ宿《とま》ったね。先ずローヤル旅館かな。」ギルは如何《いか》にも自信があるらしくいった。
その晩泉原は偶然にも、初めて会った人の、初めての部屋で寝る事になったが、夜が明けると床を離れて身|支度《じたく》を調えた。倫敦《ロンドン》の下宿にいる時のように流石《さすが》に朝寝もしていられなかった。
食事を済《すま》すと、ギルは前夜の言葉を忘れずに泉原を促して家《うち》を出た。
ローヤル旅館を最先《まっさき》にして四五の旅館で宿帳を見せて貰《もら》ったが、悉《ことごと》く失敗であった。最後に無駄とは思いながら念の為に海岸寄りのレヂナ旅館へ立寄って見た。ギルは帳場の支配人と何事か談合《はなしあ》っていたが、すぐ宿帳を見せてくれた。泉原はギルの後ろから延上《のびあが》って帳簿の上に目をさらした。然《しか》しグヰンの名はどの頁《ページ》にも見当らなかった。二人はそこを出ると、これはと目ざす旅館を悉《ことごと》く廻り歩いた。其《その》日は朝から小雨が降っていたが、十時頃から本降りになった。雲を掴むような捜査に二人は根気づかれがして、とう/\泉原の方から、
「最《も》う諦めよう。」といい出した。ギルもそれに同意して丁度通りかゝった海浜旅館を最後とする事にした。如才ない支配人は特別親切に自ら分厚な宿帳を繰って、共々調べてくれた。
「そのような名前のお方はおられませんな。第一昨夜は新規のお客で、若い御婦人などはお宿《とま》りになりませんでしたよ。」支配人の言葉をきゝながら、泉原は何気なく帳場の壁に懸《かか》っている姿見に視線をやった時、鏡の中に緑色のドレスを纏《まと》った女の姿がチラと映った。彼はハッとして四辺《あたり》を見廻すと、ホールの正面にあたった突《つき》あたりの階段を緑色のドレスを着た女が上ってゆくのを認めた。女は既に最後の段を上りきったところで、帳場の方に向って軽く支配人の挨拶に応えながら、階段の上に姿を没して了った。帳場に立っていた三人は期せずして言葉もなく女の姿を見送っていた。
「あれは誰です。遠くで確かには分らないが、あれは私の捜しているグヰンのようです。」泉原が最初に口をきった。
支配人は途方もないといったように、
「冗談《じょうだん》じゃアない。あの方はA嬢と仰有《おっしゃ》る私共の大切なお客様ですよ。お父様の病気見舞にいらしって、今日で既《も》う一週間も御滞在になっているのですよ。」と笑いながらいったが、フト声を落して、
「ところがお気の毒にも、お父様の容態は昨晩から急に不良《わる》くなって、今朝方とう/\お逝去《なくな》りになったのです。」といった。そして彼は宿帳を拡げて泉原の鼻先へ突出して見せた。そこには二十日程前の日附で、Aという人物の住所、姓名、が記されてある。泉原は自分の眼を疑うように、更めて宿帳を見直した。幾度見てもそれは彼が昨夕不在を訪問したA老人と同じ姓名で、而《しか》も番地さえ街の住宅と同一であった。
「A老人がお逝去《なくな》りになったのですって?」泉原は胸を躍らせながら早口に訊《たず》ねた。
「そうです。最初はそれ程お不良《わる》いとも見えなかったですが、もと/\心臓はおよわかったようです。昨夜は倫敦《ロンドン》から奥様と甥御さんがおいでになって、附切りでご看護をなすっておられたです。」と支配人はいった。
「それは気の毒ですな。旅先でお逝去りになったのでは、お嬢さんは嘸《さぞ》お困りでしょう。」ギルは傍から口をいれた。
「それで私共も旅館《ホテル》としては出来るだけの御便利を計る事にしております。今晩八時の汽車でこちらをお引上げになるのです。何しろ今はご親戚の方や、牧師さんがお集りになってゴッタ返しておりますよ。」支配人は感慨深く言葉をきった。泉原はそれでも納得せずに、根掘り葉掘り頻《しき》りに娘の容貌などを訊ねているところへ、数人の客がザワ/\と入ってきた。ギルは泉原を引立てるようにして旅館の外へ連出した。
「私にはどうも合点《がてん》がゆかない。若《も》しあの緑色のドレスを着ていた女が、私の捜しているグヰンでなく、一週間前からこの海浜旅館に滞在しているA嬢であるとしたら、昨夕|倫敦《ロンドン》のV停車場《ステーション》で見かけたのは一体誰だろう。」
「恐らく、人違いか。」
「人違いだって? 私はグヰンと永い間一緒に住んでいたのですよ。私は貴郎《あなた》が思う程、頭脳《あたま》が悪くはない積りです」
「悪く解《と》っては困る。そういっちゃア失礼だが、我々英国人から見れば日本人はどれもこれも同じ顔のように思われるから、君達の目から見ても、矢張《やは》り我々は同じに見えるかも知れないと思ったからさ、緑色のドレスは今年の流行《はやり》で、大抵の若い女は着るからね。」
泉原はムッとした様子で暫時《しばらく》黙っていたが、
「V停車場で見たのは、私の捜《たず》ねている女に相違なかったですよ。昨晩H通りで出会った自動車にも、確かにグヰンが乗っていたのです。然《しか》し今、海浜旅館で見かけた人は余り距離が隔っていたので、明瞭《はっきり》した事は云えません。今朝方逝去ったというAさんは私の知った方ですから、家族の人にお会いすれば、すぐ疑問は解けますが、取込中だという事ですから、故意《わざ》と遠慮した訳です。」といってスタ/\と歩き出した。ギルは呆れたような様子で相手の顔を瞶《みつ》めていたが、何と思ったか黙って後を追った。
「成程君のいう事が正しいかも知れん。君がV停車場《ステーション》でグヰンを見たとき、先方は三人連だったとかいったっけね。H通りで会った自動車に乗っていたのも同じ三人連で、先刻《さっき》の支配人の話では昨夜|倫敦《ロンドン》から着いたのはA夫人と甥とかいったじゃないか。A嬢は一週間前から父親に附切りだったというから、V停車場にいた筈はなし。」
「無論ですとも、グヰンは三人連でV停車場からマーゲート行の汽車へ乗ったのです。A嬢は昨夜ひとりでA夫人と従兄《いとこ》を停車場へ迎えにいったというじゃアありませんか。緑色のドレスを着ていた女が、自動車の中では真紅《まっか》なスエーター姿に早替りをし、而《しか》もA嬢が昨夜停車場へゆくといって海浜旅館を出た時は、赤いスエーターを着ていたという事です。貴郎は二人の若い女のうちのどちらかが、誘拐されていると想像する事は出来ませんか。」
「豪《えら》い、豪い、それからどうした。」ギルは興あり気に訊《たず》ねた。
「私は昨夜自動車に出会った場所は、停車場《ステーション》から海浜|旅館《ホテル》へ出る道路《みち》とは違っている。而《しか》も汽車が到着《つい》た時から一時間も経過《た》っていた。瀕死の状態に陥っているA老人を旅館に残しておきながら、停車場からすぐ旅館へ行かずに、飛んでもない方角違いのH通りを疾走《はし》っていたのは不思議じゃアありませんか。私はA夫人も、それから甥と称する男も怪しいと思う。」
二人は間もなくH通りの間口の広い雑貨店の前へ出た。
「このH通りの突あたりは丁字《ちょうじ》形の横通りになっていますね。そこ迄に幾つ横町があるでしょう。」泉原は相手を振返っていった。
「こゝから数えれば、突あたりの道路をいれて左右に貫いた三つの横通りがありますよ。」
「あの時の自動車の速力から考えても、第一の角を曲って来たとは思われない。第二か第三の角を左手の横通りから出て来たに違いない。若し右横町に彼等の巣があるとすれば、海浜旅館にゆく為にH通りへ出るのは大迂廻《おおまわ》りだ。」
二人はやがて第二の横町を入った。そこは壊れた敷石の所々に、水溜りの出来ている見窄《みすぼ》らしい家並《やなみ》のつゞいた町であった。玄関の円柱《はしら》に塗った漆喰《しっくい》が醜く剥《はが》れている家や、壁に大きな亀裂《ひび》のいっている家もあった。
「君、左側の家に注意してくれ給え。」
「どうして左側かね。」泉原の言葉にギルは怪訝《けげん》らしく問返した。
「何にそれは斯《こ》うですよ。私の歩いていたのはH通りの右側で、前方から来た自動車の中央にグヰンがいて、その両傍《りょうわき》に年とった婦人と若い男が腰をかけていたからです。自動車には女連を先にして、後から男が乗るのが英国式じゃアありませんか
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