。第二か第三の横通りにある家《うち》の前から乗っていた自動車の位置によって、その家が右側にあるか、左側にあるか分る筈です。」
泉原はそういって左側の家から順々と見ていったものゝ、どの家《うち》も道路に向った窓を鎖《とざ》して、無人の境のように静り返っていた。二人は稍《やや》失望を感じて同じ道路《みち》を戻ってくると、泉原はフトある家の前で足を停めた。彼はその家の三階の窓に、鉢植の草花を発見したのである。草花の鉢は雨が降れば取込む事にきまっている。見渡すところ、その家を除いては何処《どこ》の窓にも、植木鉢を出しっぱなしにしておく家はなかった。取込まないのはその部屋に住む人が忘れているのか、或は何かの事情で窓を開ける事を欲しないのか。強い風を交えた雨に、赤いゼラニウムの花が散々に打たれていた。敷石の上に一本の毛ピンが落ちていた。それを発見《みつ》けて拾上げたのはギルであった。二人は何という事なく顔を見合せると、改めて高い三階の窓を見上げた。
雨の降っている最中に植木鉢を仕舞い忘れる事は屡々《しばしば》経験する事実である。それに遺失《おと》し易い婦人の毛ピンが敷石の上に落ちていたからといって格別怪しむに足《た》らなかったが、白昼《ひるま》とはいいながら死んだように寂《さび》れた町に立って、取着く島をも見出し得なかった二人は、そのような事をも頼みにする心持になったのである。ギルは中凹《なかくぼ》みに擦《す》り減った石段を上ってその家の扉《ドア》を叩いた。中々応えがない。その時遠くの町角に現われた男は二人の姿を認めて、アタフタと其場を立去って了《しま》った。
ギルは続け様に扉を叩いた。けたゝましい音が町中に響き渡った。するとすぐ玄関わきの扉をあける音がして、五十恰好の薄穢い服装《みなり》をした女が不機嫌な顔を突出した。ギルは突然三階には何者がいるかと訊ねた。女は投げつけるような語調《ことば》で、誰も住んでいない由《よし》を答えた。
「お前の言葉だけでは信ずる事は出来ないから、三階へ上って見る。」といって職掌《しょくしょう》を書いた名刺を示した。女はひどく狼狽した様子であったが、故意《わざ》と玄関口に立ちはだかって、
「病人が臥《ね》ているから、上っては困ります。どういう御用事ですか。」と頻りに押止《おしと》める様子が、却《かえ》って二人に疑惑の念を抱かしめた。
ギルは烈《はげ》しく女を叱り飛《とば》して、バラ/\と階段を馳上った。泉原も続いて後に従った。廊下から掛った鍵を捻《ひね》って三階の表部屋をあけると、緑色のドレスを着けた娘が手足を縛《ばく》されて椅子に括《くく》りつけられたまゝ、部屋の隅に小さくなっている。その瞬間、泉原はてっきりその女をグヰンだと思った。然《しか》しそれは過《あやま》りで、背恰好《せいかっこう》や顔立は見違える程似ているが、全くの別人であった。不意の闖《ちん》入者に彼女は度を失って、少時《しばらく》言葉もなく立竦《たちすく》んでいたが、相手の二人が救助に来たのであると知ると、
「有難うございました。私は昨晩から悪者の為にこの部屋に監禁されているのでございます。父様《とうさま》はどうなすったでしょう。どうかすぐH旅館《ホテル》へ案内して下さい。私はAというもので、父様の看護の為、当地にきているのです。」と息をきらせながらいった。泉原は素早く馳寄《かけよ》って女の縛《いましめ》を解いた。A嬢といえば先刻《さっき》海浜旅館で見かけた婦人であると思っていたが、今この部屋に監禁されている令嬢を見れば、旅館でA嬢の名を騙《かた》っているのはグヰンに相違ない。A嬢はギルに向って手短かに昨夜来の出来事を語った。それによると彼女は昨夜、義理の母に当るA夫人から電報を受取って停車場《ステーション》まで出迎えにいった。すると其処《そこ》にはA夫人の他に従兄《いとこ》のリケットがいた。彼は常々A嬢に取入ろうとして執拗に附纏《つきまと》っている。A老人は予々リケットの不良性を持っている事を知って、家には出入を禁じてあった。それにも拘らずA夫人と共に、停車場へ着いたので、A嬢は烈しい言葉で詰問した事だけは記憶《おぼ》えているが、その後の事は何も知らず、気がついた時は手足を縛《ばく》されて此処《ここ》に監禁されていた、という事である。
「私は従兄のリケットを旅館へつれてゆく事を欲しなかったので、傍にいた自動車の蔭へA夫人を呼んで、相談をしました。その時大方|魔酔剤《ますいざい》を嗅《かが》されたものと見えます。何卒《どうぞ》一刻も早く、旅館へ連れていって下さい。斯《こ》うしている間にも、父様の上にどんな恐ろしい事が起るかも知れないのです。」
二人は支配人の言でA老人の逝去《なくな》った事実を知っているので、黙って顔を見合せた。ギルのかけた電話によって警察の自動車が時を移さず家《うち》の前についた。立《たち》しぶる宿の内儀《かみ》さんを引立てゝ、一行は海浜旅館へ自動車を疾走《はし》らせた。
旅館の玄関へ着くと、一行はドヤと帳場へ入っていった。支配人は呆然として先に立ったA嬢の顔を瞶《みつ》めていたが、
「これは大変だ。貴女《あなた》はAさんのお嬢様に違いありません。然し五階のお部屋にいるお嬢さんは……」と叫んだ。
「偽《にせ》者だ。」
「騙《かた》りだ。」居合せた男達は口々に叫んで、昇降機《リフト》に向おうとする刹那、倏忽《たちまち》戸外《そと》に凄じい騒ぎが起った。それは年若い婦人が五階の窓から敷石の上へ墜落《お》ちて惨死したという報知《しらせ》であった。
四
泉原はそれをきくと真先に旅館を飛出した。雨に濡れた敷石の上に、緑色のドレスを着た女が頭蓋骨を粉砕されて無惨な死を遂《と》げていた。真紅《まっか》な血が顔から頸筋をベットリ染めている。それは紛れもない泉原の愛人であったグヰンの変り果てた姿である。泉原は集ってきた人々の手を借りて旅館の一室へ擔込《かつぎこ》んで、応急手当を施したが女は全く息が絶えていた。
「それ。」といって警官の一行は泉原を残したまゝ、五階へ上ると、A夫人は顔を両手に覆《お》うて、恐ろしさにワナ/\と打震えていた。寝室にはA老人が冷たくなって既に縡切《ことき》れていた。
夫人は直《ただち》に警察へ引立られた。グヰンは自動車に乗った警官の一行が旅館《ホテル》へ入ったのを見て、所詮《しょせん》身の免《のが》れ得ぬのを知り、五階の窓から飛降りて、自殺を図《はか》ったのだというものもあれば、A夫人がグヰンを突落したのであろうと、意味あり気に囁《ささや》き合う連中もあった。泉原はその孰《いず》れにも容易に耳を傾ける事は出来なかったが、たとえ彼を裏切ったとはいえ、目のあたり無惨な最後を遂げた昔の恋人を見ると、坐《そぞろ》に涙を催された。泉原は死骸の側《わき》につきゝって、何呉《なにくれ》となく世話をやいた。
甥のリケットはそれっきり姿を晦《くら》まして了った。警察に引致《いんち》されたA夫人と、A嬢の監禁されていた宿の内儀さんの自白によって左記の事実が明白となった。
変屈者のA老人は唯一人|飄然《へいぜん》と海岸へ来て、旅館《ホテル》に滞在中、固疾《こしつ》の心臓病が起って危篤に陥った。報知《しらせ》によって倫敦《ロンドン》から娘が看護に来た。娘はA老人の先妻の子で、現在のA夫人は数年前から倫敦《ロンドン》へ別居している。A老人の容態は日一日と不良《わる》くなっていった。娘は父親にいえば不興《ふきょう》を蒙《こうむ》るのを知っていたが、病気の経過が思わしくないので、思い余って密《ひそか》にA夫人に手紙を出したのであった。するとA老人が逝去《なくな》った前夜、A夫人から電報が来て、九時に停車場《ステーション》に着くから迎えに来てくれと記《しる》してあった。娘は密に旅館を抜出して停車場へゆくと、彼等の罠にかゝって場末にあるリケットの仲間の家に監禁された。リケットの情婦グヰンが娘に生写《いきうつ》しであるを種に、A夫人は娘のスエーターを剥取ってグヰンに着せ、真《ほん》ものゝA嬢と見せかけて、大胆に海浜旅館へ乗込んだのである。
A老人の直接の死因は心臓麻痺であった。然し前日の医師の診断では、そう急激に変化が来るとは何人《なんぴと》も信じなかった。何か特別に精神的激動を受けたものかも知れないと、係りの医師は頻《しき》りに首を傾けていた。尤《もっと》も病人は高齢の事であり、且《か》つ衰弱が甚だしかったから、故意に枕元の窓をあけて、寒冷な夜気を吸込ませておいても、非常な影響であるという事であった。
A夫人は係官の訊問に答えて、
「私は甥のリケットと、死んだグヰンとを一緒にする事に反対はしなかったが、良夫《おっと》は何故かグヰンを酷《ひど》く嫌っていて、そんな女と結婚するなら鐚一文《びたいちもん》もやらぬ、といっておりました。グヰンの方が余計にリケットを愛していつも附纏《つきまと》っていたので、近頃は甥も少しく鼻についていたらしかったのです。前の晩、私共は看護|疲労《づか》れで夜中の一時過ぎに臥《やす》みました。それから一二時間もしてフト気がつくと、良夫とグヰンが何事か声高にいい争っているのを耳にしましたが、余りに疲労《つか》れていたので、起きてゆく精もなく、其《その》まゝ睡《ねむ》って了《しま》ったのです。」と意味あり気にいった。
死人に口なしでグヰンの死は一切謎であった。然しながら老人が死ねば、財産は当然A嬢の手に移る事になっている。それ故《ゆえ》真《ほん》ものゝA嬢を監禁して、其間に容貌の酷似したグヰンを身替りにして一芝居打ち、三人共謀の上財産を横領しようと図ったという事は充分に認められる。
リケットは其後、倫敦の船着場で逮捕された。彼は詐偽《さぎ》の前科をもっていた。彼等は財産横領及び不法監禁の罪名の下に令状を執行されて、それ/″\処決された。
泉原は住馴れた倫敦の下宿へ帰ってからも、その当座は頻りにグヰンの儚《はか》ない一生が思出されてならなかった。
底本:「日本ミステリーの一世紀(上巻)」廣済堂出版
1995(平成7)年5月15日第1刷発行
底本の親本:「日本探偵小説全集7」改造社
1930(昭和5)年
初出:「秘密探偵雑誌 第1巻第3号」奎運社
1923(大正12)年7月号
入力:川山隆
校正:noriko saito
2007年8月13日作成
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