グヰンは何故《なにゆえ》に都の避暑客の集っているこのマーゲートへきたのであろう。而《しか》も一時間も前に同じ汽車でこの土地に着いていながら、今迄|何処《どこ》にいたものであろう。そして最も訝《おか》しいのはグヰンの服装が停車場で見た時と異《ちが》っていた事である。彼女は白いブラウスの上に、真紅《あか》い目の醒《さ》めるようなジャケツを引《ひっ》かけていた。それよりも尚《なお》泉原の心をひいたのは、心持ち唇をかむようにして、じっと空間を見据えている彼女の横顔であった。泉原は一緒に暮していた経験から彼女の癖をよく知っていた。
「そうだ。グヰンはこの土地で何事か大事な事を謀《たくら》んでいるに違いない。」と彼は思った。彼女は何処へゆくか知らぬが、服装《みなり》から考えても今夜はこの土地に宿《とま》る事は明かである。今更自動車の後を追ったところで、的《あて》がない訳だ。広くもないマーゲートの事であるから、明日《あす》になってから彼女の住居《すまい》を突止める事にしようと思った。
 彼はとある横町でようやく粗末な料理店を見付けた。
 食事時間を大分過ぎていたので、僅《わずか》に数える程の客があちこちの席に就《つ》いている計《ばか》りであった。卓子《テーブル》を三|側《かわ》おいた彼の筋向うには、前額の禿上った男が頻《しき》りに新聞紙を読耽《よみふけ》っていた。帳場に近い衝立の陰には、厚化粧をして頬紅《ほおべに》を塗った怪しげな女が、愛想笑いをしながら折々泉原の方を振返っていた。女は長い巻煙草《シガー》を細い指先に挟んで、軽い煙をあげている。隅の卓子《テーブル》では二人の青年が鼻を突合せて何事か熱心に喋合っていた。
 泉原は髪の毛のちゞれた女給仕《ウェートレス》の運んでくる食物を黙々として食った。
 食事が済むと、彼は幾許《なにがし》かの勘定を払って戸外《そと》へ出た。そして安い旅館《ホテル》をさがす為に、場末の町へボツ/\と歩をむけた。
 下町の道路は狭隘《せま》く、飛び/\に立っている街燈が覚束《おぼつか》ない光を敷石の上に投げていた。夕暮が永かった割に、日が暮れると急に夜が更《ふ》けたように、人通りが稀になった。泉原は鉄柵を鎖《とざ》した雑貨店の角を曲りかけた時、
「モシ、モシ。」と背後《うしろ》から呼ぶ声をきいた。泉原は悸乎《ぎょっ》として振返ると、中折帽を冠《かぶ》った大男が、用ありげにツカ/\と寄ってきた。

        三

「失礼だが、燐寸《マッチ》の持合せがあるなら貸してくれませんか。」男は泉原の顔をジロ/\と覗込みながら、幾分か声を和《やわら》げていった。泉原はポケットを探って無言のまゝ相手に燐寸を渡した。見るとそれは最前食事をしていた時、彼の筋向うの卓子で新聞を読んでいた男であった。
「私は先刻《さっき》料理店で貴方《あなた》をお見かけしたと思いますが。」と泉原は恐る/\いった。
「その通りですよ。君はこの土地に初めてと見えますね。この辺は物騒でよく追剥が出没するですよ。昨夜も避暑にきている若いアメリカ人の被害があったです。君はこれから何処《どこ》へ行こうとなさるのかね。」
「何処へゆくという目的《めあて》はありません。私は日本人の画家で、先刻|停車場《ステーション》へ着いた計《ばか》りです。」
「そうらしいと思ったです。見たところ土曜から日曜にかけての休日を利用して海岸に保養に来たという様子もなし。」相手は背の低い泉原の服装《みなり》を見廻しながらいった。
「私は上等な旅館へゆきたくなく、ホンの一夜を凌ぐ為に安い宿を探しているのです。」
「じゃア私の家《うち》へ来たらどうだね。特別にお構いする事は出来ないが、丁度二階に使わない部屋があるから、そこなら提供してもいゝ。」相手はひとりのみこみをして泉原の答も待たず、先に立って歩出した。
「先刻《さっき》もいった通り、近頃この界隈で頻々と追剥があるので警戒していると、最前から君が彼方《あっち》へいったり、此方《こっち》へいったりしている様子が不審に思われたのです。私はマーゲート署の探偵ですよ。私は日本語は出来ないけれども、家内は東京、横浜それから日光へいった事があるので、日本語を話します。日本人のお客を連れて帰れば家内は喜びますよ。」
 泉原は半ば煙に捲《ま》かれたかたちで、勧《すす》めるまゝに相手の後に蹤《つ》いていった。探偵の家は町はずれの丘の上に並んでいる小ぢんまりとした二階建の一つであった。
 ギル探偵夫妻は珍らしい東洋の客を歓迎して、二日や三日なら遠慮なく宿《とま》るがいゝと頻《しき》りに勧めた。ギル夫人の日本語はてんで問題にならない、僅《わずか》に「有難う」とか、「お早う」とかを知っている位の程度であったが、それでも外国人の口から日本語をきくのは嬉しかった
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