た。
「そうだ確かにグヰンに違いない。」彼は口の中で呟いた。
丁度改札口を出てゆく三人づれがあった。真中のは濃い緑色のきものを着た髪の毛の黒い若い女で、左右には五十近いでっぷりした婦人と、背の高い中年の男がいた。
「もし/\鳥渡《ちょっと》待って下さい。」と泉原は数間離れたところから夢中で声をかけたが、三人連は振返りもせず、そのまゝ歩廓《プラットフォーム》を歩いていった。泉原の周囲《まわり》の人々は一斉に振返って、奇声をあげた小さな日本人を不思議そうに瞶《みは》っている。泉原は突嗟《とっさ》の間に雑沓《ざっとう》の間を縫ってM駅行の切符を購《か》った。そして周章《あわただ》しく改札口を出るなり、三人連の後を追った。
二
出札口で手間取った為に、泉原は三人連の一行を見失って了った。間もなく汽車は動出した。停車場へ着く度に、若《も》しや彼等が下車しはせぬかと、泉原は注意深く窓から首を出して、下車する人々の群を見張っていた。途中何事もなく、終点のマーゲート駅に到着したのは、暗くなってから一時間も経過《た》った頃であった。車がまだ全く停止《とま》りきらないうちに、彼は歩廓に飛下りて、逸《いち》早く改札口に向かったが、彼の乗った車輛は最後車の次であった為に、改札口を出たときは、既に一団《ひとかたま》りの人々が構外へ吐出されていた。併《しか》し相手は婦人づれであるから、確に自分の方が先に相違ないと思って、彼は工合のいゝ物蔭に立って眼を輝かしていた。
泉原はなけなしの金を費して、わざ/\マーゲートまで来ながら、とう/\グヰンの姿を見失って了《しま》った。恐らく彼女の一行はこのように遠《とお》はしりもせず、V停車場《ステーション》を離れると、じきに郊外の小駅《しょうえき》で下車して了ったものであろうか、それとも同じ終点で下りたが、彼より先に構外へ出た人々のうちに交っていたのかも知れぬ。捕えたらあゝも云おう、斯《こ》うも云おうと意気|組《ぐ》んでいた泉原は、張詰《はりつ》めた気がゆるむと、一時に疲《つか》れを感じてきた。マーゲート駅で下車した人々は停車場《ステーション》を立去って、大《おお》風が吹過《ふきす》ぎたあとのような駅前の広場に、泉原は唯ひとり残された。彼は何処へゆくという的途《あてど》もなく、海岸通りへ歩を運んだ。
装飾電燈《イルミネーション》をつけた五階建、六階建の宏荘な旅館《ホテル》が、整然として大通りのペーブメントに沿ってすっくりと立並んでいる。美しい服装《なり》をした婦人達の姿がチラ/\と見えていた。
「Q旅館か、二年前に始めて英国へきたその時の夏には、この旅館に宿泊《とま》った事がある…があとにも先にも、それが一ぺんきりに違いない。」と泉原は呟《つぶや》いて、ふと着古し膝の丸く出た服のズボンを見下したが、過去《すぎさ》った記憶から遁《のが》れるように、足早にそこを立去った。海岸通りには涼しい風が街樹の緑をサラ/\と鳴している。音楽堂では賑かなコンサートをやっていた。泉原はそこまで歩いていったが、汽車の着いた時間からいっても、グヰンの一行が海岸にいる筈《はず》はないと思ってもとの道へ引返した。夕方|倫敦《ロンドン》のV停車場で、グヰンを見かけて、こんなところまであとを追ってきたが、女は果して尋《たず》ねるグヰンに違いなかったろうか、と彼はいま幾分か不確な心持になっていた。仮令《よし》それがグヰンであったとしたところが、彼女は自分をすてゝ逃げたのではないか。貯金帳をもって走ったという事も、自分から告訴する考えもなく、また彼女に賠償させようという気もない以上、彼女の後を追うべき必要は更にない訳である。泉原はそう思って、我ながら斯《そ》うして女のあとを追ってきた愚かしさをはがゆく思った。
一時に昼食をとって以来、何も口へ入れなかった泉原は頻《しき》りに空腹を覚えてきたので、本通りの裏手へ入って、入りいゝ飯屋《めしや》をさがそうと思った。彼は小さな商店の立並んだ裏町を曲りくねって、海岸へ通ずる道路幅の広い大通りへ出た。そして間をおいて青白い瓦斯燈《ガスとう》の点《とも》っている右側の敷石の上を歩いてゆくと、突然前方の暗闇から自動車が疾走《はし》ってきて、彼の横を通り過ぎた。彼はびっくりして目をあげた瞬間、彼は確かに車内にいた三人の姿を認めたのである。それはいう迄もなく、V停車場で見かけた一行で、五十恰好の婦人を真中に、モーニング姿の男と、グヰンが腰をかけていた。グヰンは泉原の立っている方に近い、向って右手の席に就《つ》いていた。自動車はまたゝくうちに遠くなって、闇中に姿を没して了った。
泉原は唖然として暫時《しばらく》路傍に立竦《たちすく》んでいた。V停車場で見かけたのは確かにグヰンである。それにしても
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