。泉原は最初のうちこそ堅くなっていたが、段々心|易《やす》い気持になって、彼がマーゲートへ来た理由を打明けて了《しま》った。
「その女は二年前に君の金を拐帯《かいたい》して逃げたというのかね。女がマーゲートへ下車したという事は間違いないかね。」
「私は現にH町の大通りを歩いていた時、彼等一行の乗っていた自動車に行会ったのです。それから不思議だと思ったのは、V停車場《ステーション》で見た時と、先刻とは全く別な服装をしていた事です。停車場へつくなり、一旦|旅館《ホテル》へいって、それから自動車で出直したといえばそれまでの話ですが、第一H通りから北へかけて、旅館らしいものがありますか。」
「無論ないさ。H通りからK町一帯は住宅地で、旅館は海岸にある計《ばか》りさ。それからどうしたね。」ギルは興味を覚えてきたらしく、膝を乗出してきた。
「私がその自動車に行会ったのは、H通りの中程で、飾窓に青く電燈のついている店から二十間計りいったところでした。自動車は何処《どこ》へいったのかその先は分りません。」
「青い電燈のついているのはSという雑貨屋だ。よし/\明日は幸い非番だから、旅館をさがしてやろう。どこの旅館へいっても、支配人や番頭とは顔馴染だから、旅館の滞在客を調べるのは造作ない。私の考えでは彼等は海岸通りの旅館へ宿《とま》ったね。先ずローヤル旅館かな。」ギルは如何《いか》にも自信があるらしくいった。
 その晩泉原は偶然にも、初めて会った人の、初めての部屋で寝る事になったが、夜が明けると床を離れて身|支度《じたく》を調えた。倫敦《ロンドン》の下宿にいる時のように流石《さすが》に朝寝もしていられなかった。
 食事を済《すま》すと、ギルは前夜の言葉を忘れずに泉原を促して家《うち》を出た。
 ローヤル旅館を最先《まっさき》にして四五の旅館で宿帳を見せて貰《もら》ったが、悉《ことごと》く失敗であった。最後に無駄とは思いながら念の為に海岸寄りのレヂナ旅館へ立寄って見た。ギルは帳場の支配人と何事か談合《はなしあ》っていたが、すぐ宿帳を見せてくれた。泉原はギルの後ろから延上《のびあが》って帳簿の上に目をさらした。然《しか》しグヰンの名はどの頁《ページ》にも見当らなかった。二人はそこを出ると、これはと目ざす旅館を悉《ことごと》く廻り歩いた。其《その》日は朝から小雨が降っていたが、十時頃から本降りになった。雲を掴むような捜査に二人は根気づかれがして、とう/\泉原の方から、
「最《も》う諦めよう。」といい出した。ギルもそれに同意して丁度通りかゝった海浜旅館を最後とする事にした。如才ない支配人は特別親切に自ら分厚な宿帳を繰って、共々調べてくれた。
「そのような名前のお方はおられませんな。第一昨夜は新規のお客で、若い御婦人などはお宿《とま》りになりませんでしたよ。」支配人の言葉をきゝながら、泉原は何気なく帳場の壁に懸《かか》っている姿見に視線をやった時、鏡の中に緑色のドレスを纏《まと》った女の姿がチラと映った。彼はハッとして四辺《あたり》を見廻すと、ホールの正面にあたった突《つき》あたりの階段を緑色のドレスを着た女が上ってゆくのを認めた。女は既に最後の段を上りきったところで、帳場の方に向って軽く支配人の挨拶に応えながら、階段の上に姿を没して了った。帳場に立っていた三人は期せずして言葉もなく女の姿を見送っていた。
「あれは誰です。遠くで確かには分らないが、あれは私の捜しているグヰンのようです。」泉原が最初に口をきった。
 支配人は途方もないといったように、
「冗談《じょうだん》じゃアない。あの方はA嬢と仰有《おっしゃ》る私共の大切なお客様ですよ。お父様の病気見舞にいらしって、今日で既《も》う一週間も御滞在になっているのですよ。」と笑いながらいったが、フト声を落して、
「ところがお気の毒にも、お父様の容態は昨晩から急に不良《わる》くなって、今朝方とう/\お逝去《なくな》りになったのです。」といった。そして彼は宿帳を拡げて泉原の鼻先へ突出して見せた。そこには二十日程前の日附で、Aという人物の住所、姓名、が記されてある。泉原は自分の眼を疑うように、更めて宿帳を見直した。幾度見てもそれは彼が昨夕不在を訪問したA老人と同じ姓名で、而《しか》も番地さえ街の住宅と同一であった。
「A老人がお逝去《なくな》りになったのですって?」泉原は胸を躍らせながら早口に訊《たず》ねた。
「そうです。最初はそれ程お不良《わる》いとも見えなかったですが、もと/\心臓はおよわかったようです。昨夜は倫敦《ロンドン》から奥様と甥御さんがおいでになって、附切りでご看護をなすっておられたです。」と支配人はいった。
「それは気の毒ですな。旅先でお逝去りになったのでは、お嬢さんは嘸《さぞ》お困りでしょう。」ギ
前へ 次へ
全8ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
松本 泰 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング