ルは傍から口をいれた。
「それで私共も旅館《ホテル》としては出来るだけの御便利を計る事にしております。今晩八時の汽車でこちらをお引上げになるのです。何しろ今はご親戚の方や、牧師さんがお集りになってゴッタ返しておりますよ。」支配人は感慨深く言葉をきった。泉原はそれでも納得せずに、根掘り葉掘り頻《しき》りに娘の容貌などを訊ねているところへ、数人の客がザワ/\と入ってきた。ギルは泉原を引立てるようにして旅館の外へ連出した。
「私にはどうも合点《がてん》がゆかない。若《も》しあの緑色のドレスを着ていた女が、私の捜しているグヰンでなく、一週間前からこの海浜旅館に滞在しているA嬢であるとしたら、昨夕|倫敦《ロンドン》のV停車場《ステーション》で見かけたのは一体誰だろう。」
「恐らく、人違いか。」
「人違いだって? 私はグヰンと永い間一緒に住んでいたのですよ。私は貴郎《あなた》が思う程、頭脳《あたま》が悪くはない積りです」
「悪く解《と》っては困る。そういっちゃア失礼だが、我々英国人から見れば日本人はどれもこれも同じ顔のように思われるから、君達の目から見ても、矢張《やは》り我々は同じに見えるかも知れないと思ったからさ、緑色のドレスは今年の流行《はやり》で、大抵の若い女は着るからね。」
 泉原はムッとした様子で暫時《しばらく》黙っていたが、
「V停車場で見たのは、私の捜《たず》ねている女に相違なかったですよ。昨晩H通りで出会った自動車にも、確かにグヰンが乗っていたのです。然《しか》し今、海浜旅館で見かけた人は余り距離が隔っていたので、明瞭《はっきり》した事は云えません。今朝方逝去ったというAさんは私の知った方ですから、家族の人にお会いすれば、すぐ疑問は解けますが、取込中だという事ですから、故意《わざ》と遠慮した訳です。」といってスタ/\と歩き出した。ギルは呆れたような様子で相手の顔を瞶《みつ》めていたが、何と思ったか黙って後を追った。
「成程君のいう事が正しいかも知れん。君がV停車場《ステーション》でグヰンを見たとき、先方は三人連だったとかいったっけね。H通りで会った自動車に乗っていたのも同じ三人連で、先刻《さっき》の支配人の話では昨夜|倫敦《ロンドン》から着いたのはA夫人と甥とかいったじゃないか。A嬢は一週間前から父親に附切りだったというから、V停車場にいた筈はなし。」
「無論ですとも、グヰンは三人連でV停車場からマーゲート行の汽車へ乗ったのです。A嬢は昨夜ひとりでA夫人と従兄《いとこ》を停車場へ迎えにいったというじゃアありませんか。緑色のドレスを着ていた女が、自動車の中では真紅《まっか》なスエーター姿に早替りをし、而《しか》もA嬢が昨夜停車場へゆくといって海浜旅館を出た時は、赤いスエーターを着ていたという事です。貴郎は二人の若い女のうちのどちらかが、誘拐されていると想像する事は出来ませんか。」
「豪《えら》い、豪い、それからどうした。」ギルは興あり気に訊《たず》ねた。
「私は昨夜自動車に出会った場所は、停車場《ステーション》から海浜|旅館《ホテル》へ出る道路《みち》とは違っている。而《しか》も汽車が到着《つい》た時から一時間も経過《た》っていた。瀕死の状態に陥っているA老人を旅館に残しておきながら、停車場からすぐ旅館へ行かずに、飛んでもない方角違いのH通りを疾走《はし》っていたのは不思議じゃアありませんか。私はA夫人も、それから甥と称する男も怪しいと思う。」
 二人は間もなくH通りの間口の広い雑貨店の前へ出た。
「このH通りの突あたりは丁字《ちょうじ》形の横通りになっていますね。そこ迄に幾つ横町があるでしょう。」泉原は相手を振返っていった。
「こゝから数えれば、突あたりの道路をいれて左右に貫いた三つの横通りがありますよ。」
「あの時の自動車の速力から考えても、第一の角を曲って来たとは思われない。第二か第三の角を左手の横通りから出て来たに違いない。若し右横町に彼等の巣があるとすれば、海浜旅館にゆく為にH通りへ出るのは大迂廻《おおまわ》りだ。」
 二人はやがて第二の横町を入った。そこは壊れた敷石の所々に、水溜りの出来ている見窄《みすぼ》らしい家並《やなみ》のつゞいた町であった。玄関の円柱《はしら》に塗った漆喰《しっくい》が醜く剥《はが》れている家や、壁に大きな亀裂《ひび》のいっている家もあった。
「君、左側の家に注意してくれ給え。」
「どうして左側かね。」泉原の言葉にギルは怪訝《けげん》らしく問返した。
「何にそれは斯《こ》うですよ。私の歩いていたのはH通りの右側で、前方から来た自動車の中央にグヰンがいて、その両傍《りょうわき》に年とった婦人と若い男が腰をかけていたからです。自動車には女連を先にして、後から男が乗るのが英国式じゃアありませんか
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