かれて了《しま》った。稍《やや》明るくなりかけていた気持が大きな掌《たなごころ》で押えつけられたように、倏忽《たちまち》真暗になって了った。
 泉原はデンビ町の下宿へ帰る積りであったが、どうした訳か横丁を曲らずに、幅の広いなだらかな、堤防《エンバンクレメント》を歩いていた。両側の街樹は枝葉を伸して鬱蒼《うっそう》と繁っている。目をあげると、潮の満ちた川の上を、白鴎《かもめ》の群が縦横に飛びまわっている。夏の夕暮は永く、空はまだ明るかった。
 泉原は人気のない共同椅子《ベンチ》に疲労《つか》れた体躯《からだ》を休めて、呆然《ぼんやり》と過去《すぎさ》った日の出来事を思浮べた。斯《こ》うした佗《わび》しい心持の時に限って思出されるのは、二年|前《ぜん》彼を捨てゝ何処《どこ》へか走ったグヰンという女であった。彼女は泉原の不在《るす》の間に、銀行の貯金帳を攫《さら》って行方《ゆくえ》を晦《くら》まして了ったのである。泉原は女の不貞な仕打を憎んではいるけれども、そのような事になったのは彼女の虚栄からホンの出来心でやった事で、決して心から悪い女ではなかったと、今でも確《かた》く信じている。その後女はどうなったか、泉原はすこしも知らなかったが、彼が彼女を忘れ得ないように、女も何彼《なにか》につけ、泉原を忘れ得ないであろう。それ程二人には深い様々な記憶があった。
 泉原は四辺《あたり》が全く暗くなる迄《まで》気がつかずに共同椅子に腰をかけていたが、フト我に返って立上った。彼はいつの間にか点《とも》された蒼白い街燈の下を過ぎて、低い空を赤く染出している賑かな町の方へ歩《あるき》出した。
 兵舎の傍《わき》から斜に大通りをはいってゆくと、じきにV停車場《ステーション》へ出た。下宿へ帰るには稍《やや》迂回《うかい》であったが、停車場《ステーション》の構内をぬけて電車道へ出るところに、伊太利《イタリー》人の経営している安い喫茶店がある。そこで晩飯代りに一寸《ちょっと》したものを口に入れてから帰ろうと思ったのである。
 V停車場は乗降客でゴッタ返していた。酒場《バー》の前を過ぎて、時間表の掲《かか》げてある大時計のわきを通りかゝった時、泉原は群集の中に何ものかを見つけたと見えて、呻くような低い叫をあげてハタと足を停《とど》めた。彼はそれでも自分の目を疑うように、二三歩改札口へ馳《はし》り寄っ
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