なかった。伊東は彼を嬲《なぶ》るときに、よく、
「きみの家に遊びに行くぞ、行くぞ!」
と言うと宝沢は当惑して、いかなる場合でも無条件にへばってしまうのだが、ある時、とうとう宝沢の家が分かった。伯父の家というのは、愛宕下の薬師《やくし》の裏通りのごたごたした新道にある射的屋であった。島田髷《しまだまげ》に結って白紛《おしろい》をべったり塗って店に坐《すわ》っていたのが、宝沢の従妹に当たるお玉であった。
宝沢の家の筋向こうに、『万葉堂』という貸本屋があった。店の棚には講談本や村井玄斎《むらいげんさい》の小説などが並べてあったが、奥の箪笥《たんす》のある部屋には帝国文庫の西鶴《さいかく》ものや黄表紙などが沢山あったらしく、宝沢が読んで聞かした漢文で書いた『肉蒲団《にくぶとん》』という袖珍本《しゅうちんぼん》もそこから借り出してきたものであった。よく学校の帰りなどに宝沢が伊東を店先に待たせておいて、『魔風恋風《まかぜこいかぜ》』『はつ姿』などという小説本をひっくり返していると、なんにも知らない伊東はそれも『肉蒲団』の類かと思って、
「よせよ、よせよ、行こうよ」
などと急《せ》き立てたりし
前へ
次へ
全16ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
松本 泰 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング