伊東は朝のままの閉め切った書斎に入ると、バルコニーへ出るフレンチ窓の前に立って暗い沖を見守っていたが、朝から動きづめでくたびれたと同じく人生にも疲れたように、重い溜息《ためいき》をして窓際の大椅子《おおいす》に埋まってしまった。彼の生涯の線に宝沢法人が顔を出したり消えたりしたいくつかの時代が、不思議な明瞭《めいりょう》さをもって彼の脳裡《のうり》に甦《よみがえ》ってきた。
 三十年も昔、伊東が中学生になったばかりのころ、同じ級《クラス》で机を並べていた宝沢とはとくに気が合って、この二人はときには一緒に試験勉強などをすることもあったが、たいていの場合相棒で悪いことをするほうが多かった。宝沢は柄になく詩や歌を作ったり、いたずらに水彩画などを描《か》いても器用で独創的なところがあった。伊東は対等には付き合っていたものの何かにつけて教えられることが多く、内心敬意を払っていた。伊東の家は官吏で、芝公園《しばこうえん》に住んでいた父親の出張がちな女ばかりの寂しい家に宝沢はたびたび遊びに来た。彼は愛宕下《あたごした》辺の伯父の家に寄食しているとばかりで、どういうわけかだれにも自分の住居を知らせ
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