」
伊東は朝のままの閉め切った書斎に入ると、バルコニーへ出るフレンチ窓の前に立って暗い沖を見守っていたが、朝から動きづめでくたびれたと同じく人生にも疲れたように、重い溜息《ためいき》をして窓際の大椅子《おおいす》に埋まってしまった。彼の生涯の線に宝沢法人が顔を出したり消えたりしたいくつかの時代が、不思議な明瞭《めいりょう》さをもって彼の脳裡《のうり》に甦《よみがえ》ってきた。
三十年も昔、伊東が中学生になったばかりのころ、同じ級《クラス》で机を並べていた宝沢とはとくに気が合って、この二人はときには一緒に試験勉強などをすることもあったが、たいていの場合相棒で悪いことをするほうが多かった。宝沢は柄になく詩や歌を作ったり、いたずらに水彩画などを描《か》いても器用で独創的なところがあった。伊東は対等には付き合っていたものの何かにつけて教えられることが多く、内心敬意を払っていた。伊東の家は官吏で、芝公園《しばこうえん》に住んでいた父親の出張がちな女ばかりの寂しい家に宝沢はたびたび遊びに来た。彼は愛宕下《あたごした》辺の伯父の家に寄食しているとばかりで、どういうわけかだれにも自分の住居を知らせなかった。伊東は彼を嬲《なぶ》るときに、よく、
「きみの家に遊びに行くぞ、行くぞ!」
と言うと宝沢は当惑して、いかなる場合でも無条件にへばってしまうのだが、ある時、とうとう宝沢の家が分かった。伯父の家というのは、愛宕下の薬師《やくし》の裏通りのごたごたした新道にある射的屋であった。島田髷《しまだまげ》に結って白紛《おしろい》をべったり塗って店に坐《すわ》っていたのが、宝沢の従妹に当たるお玉であった。
宝沢の家の筋向こうに、『万葉堂』という貸本屋があった。店の棚には講談本や村井玄斎《むらいげんさい》の小説などが並べてあったが、奥の箪笥《たんす》のある部屋には帝国文庫の西鶴《さいかく》ものや黄表紙などが沢山あったらしく、宝沢が読んで聞かした漢文で書いた『肉蒲団《にくぶとん》』という袖珍本《しゅうちんぼん》もそこから借り出してきたものであった。よく学校の帰りなどに宝沢が伊東を店先に待たせておいて、『魔風恋風《まかぜこいかぜ》』『はつ姿』などという小説本をひっくり返していると、なんにも知らない伊東はそれも『肉蒲団』の類かと思って、
「よせよ、よせよ、行こうよ」
などと急《せ》き立てたりした。
夏の暮れ方、蝙蝠《こうもり》の出盛るころになると新道は急に人足が繁《しげ》くなって、顔を真っ白に塗った若い女たちが射的屋の赤提灯《あかぢょうちん》の下などにちらちら動いていた。薬師の縁日のときは新道の出口のところまで夜店が出て、酸漿屋《ほおずきや》・簪屋《かんざしや》・飴屋《あめや》などが店を張っていた。
ある晩、芝公園の寂しい松原を抜けて一人で遠遊びに出た伊東は、宝沢のところの射的屋の親父《おやじ》が露店の間にテーブルを据え、赤毛布《あかゲット》を敷いた小高い壇に四角な箱を載せ、自分はその脇で大声に口上を述べていた。その前に数人の男が立って、その四角な箱から出てくるゴム管の先を耳に当てている。耳を澄ますと、箱の中からごく微《かす》かに鼻を摘《つま》んでものを言っているような声が聞こえてくる。宝沢の伯父は入り代わり立ち代わる客から一銭ずつ銅貨を取っている。それが蓄音器であった。
宝沢は中学三年のときに不意に学校をやめて、伊東とも友達のだれかれとも消息を絶ってしまった。
二度目に伊東が宝沢と顔を合わしたときは、それから十年|経《た》っていたある年の大晦日《おおみそか》の晩で、長い学校生活を終わった伊東の数人の仲間が京橋《きょうばし》のビヤホールで何軒目かの梯子酒《はしござけ》をやっているときだった。酔い痴《し》れて店をよろけ出ていった仲間の一人は川っ縁に倒れているし、もう一人は何人《なんぴと》の存在にも無関心で犬の真似《まね》をしてテーブルの下を這《は》い回っていた。ふと伊東が顔を上げると、隅のテーブルで目を据えながらビールのコップを並べているのが宝沢であった。彼は黒っぽい洋服を着て、下は巻ゲートルに裸足足袋《はだしたび》を履いていた。
「北海道のほうを回り歩いていた。妹が自殺をしたので後始末をしてきた。きみは大学を出て月給でも取るようになったか……」
などと宝沢は言った。それから何分経ったか何十分経ったか、伊東の目の前にさっとビールが飛んできた。彼は敏捷《びんしょう》に身を躱《かわ》したので、ちょうど床から立ち上がった友人が伊東の代わりにすっかりビールを被《かぶ》ってしまった。
「いい機嫌だな」
宝沢は笑いながら戸外へ出てしまった。
それからまた数年経った。伊東が二度目にヨーロッパの旅に行った帰途、上海《シャンハイ》の河岸の公園を伊東と宝沢は肩を
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