しょう」
と、女は言った。
三人は橋の袂《たもと》から狭い土堤《どて》下の道を小走りに歩いていた。女は土地の料理店『柳亭《やなぎてい》』の女将《おかみ》お玉《たま》で、一緒についてきたのは料理番の佐吉爺《さきちじい》さんである。
伊東とお玉とは長い知り合いで、そもそも伊東がこの町に土地を購《か》ったことからして、お玉の周旋であった。お玉は伊東の旧《ふる》い友人|宝沢《たからざわ》の従妹《いとこ》である。
土堤下で三人を待っていたのは制服を着た巡査と警察医、それに駅の助役と工夫であった。
「どうも、いろいろお手数をかけて相済みませんです。あの人はなにも分からなかったんでしょうが、なんだってこんなことをしてくれたんでしょうね」
お玉は警官にそんな挨拶《あいさつ》をしながら、気味悪そうに筵のほうを見た。
「近道をしようとしてトンネルを抜け、煙に巻かれてやられたらしいですね。十一時四十八分の下りです」
と、助役が言った。
轢死した及川武太郎《おいかわたけたろう》はお玉の実兄で、千葉県の長者町《ちょうじゃまち》で一時は小学校の校長をやったり村長を務めたりしたことのあった男だが、大東《だいとう》の中原村《なかはらむら》の豊秋彦明神《とよあきひこみょうじん》を成田《なりた》の不動さまほどの人気にしようなどとしたために山のような借財を背負って、することなすこと、ことごとく失敗し、最近のこの二、三年、おかしくなったと言われていた。世間の一部では武太郎は借金に苦しんで偽狂人を装っているとかいう噂《うわさ》がないでもないが、祖先から伝わった家屋敷も人手に渡り、現在は長者町の場末にささやかな家を借りて細君と倅《せがれ》とが青物商を営んでいる。
武太郎は前夜十一時近く、酒気を帯びて飄然《ひょうぜん》と『柳亭』に現れた――例によってお玉に金の無心をしたが、たびたびのことなので取り合わなかった――武太郎は激怒してさんざん乱暴|狼藉《ろうぜき》を働いた揚句、玄関|脇《わき》に置いてあった親戚《しんせき》の猟銃を奪って逃走した――猟銃は後を追っていった親戚がようやく取り戻してきた――武太郎は勝浦町の取引先へ蜜柑《みかん》の売掛け代金を取りに行くとか言っていた――
というような言葉が、途切れ途切れに伊東の耳に入っていた。簡単に検視が済むと、死骸《しがい》の始末をして一同はそこを引き揚げた。そのころから伊東は急に言葉少なになって、ときどきお玉や佐吉に話しかけられても何か考え込んでいて、ぼんやりしていることがあった。それでも、彼は努めて甲斐《かい》がいしく手助けをしようとしていた。
「とんだことでしたね。しかし、物事はなんでも順序どおりになってくるものですよ。いいことにしろ、悪いことにしろ、みんな本人の背負っている運ですからね」
伊東はそんなことを言った。
「生きているときはさんざん人に骨を折らしたんですから、汽車に轢《ひ》かれて自分の骨をおっぺしょるのは当たり前ですよ」
お玉は泣いたような、笑ったような声で言った。
「……猟銃を持って逃げたとは、どういうわけなんです?」
「あら、わたし、まだお話ししませんでしたかね。昨夜、横浜から法人《のりと》さんがお見えになったんですの。……昨夜は遅うござんしたし、それにすぐあんな騒ぎでしょう、そんなわけでお宅には伺わなかったんですが、今夜はきっとお伺いしますわ。今朝暗いうちに鉄砲を持って出かけましたよ。いまごろはなんにも知らないで、鳥を追っかけて歩いているんでしょうね」
と、お玉は言った。
「宝沢が来たんですか。猟銃を取り返すために武太郎さんの後を追っていったというのは、宝沢なんですね……」
伊東は酒癖の悪い武太郎が玄関先で暴れ回っている光景を思い浮かべていた。きっとよく見たら、お玉の頬《ほお》に痣《あざ》でもありはしないかと思った。
伊東は『柳亭』へ行ってなにかと手伝いをしてやり、家へ戻ったのは夕暮れの四時過ぎであった。空は異様に薄明るく、死んだように風が落ちて、屋敷の中は深い谷底のようにしんとしていた。
「おい、どうしたんだ。家の中が真っ暗だね」
伊東の声にびっくりしたように、勝手口から飛び出してきた小婢《こおんな》は、
「ああ、旦那さまですか、お帰りあそばせ。わたし、お使いに行った婆《ばあ》やさんかと存じまして……」
と、吃《ども》りながら言った。
「柳亭のお玉さんの兄さんが汽車に轢かれて死んだのでね、いままで手伝いをしていたんだよ」
「まあ……そうでございますか。……あの、さきほど宝沢さまがお見えになりまして、しばらくお書斎でお待ちしていらっしゃいましたが、ちょっとその辺まで行ってくるとおっしゃってボートに乗ってお出かけになりました」
「そうか。ではお見えになったら、すぐお通ししておくれ
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