並べて歩いていた。伊東の紺サージの洋服にはミッドランドの若葉の匂《にお》いが寂しく染み込んでいた。彼の帰っていく東京の家には、年老いた父が病床で彼を待ち侘《わ》びていた。宝沢は麗《うら》らかな日光を全身に浴び、短い脚で伊東に遅れずにどしどし歩きながら、自分のやっている輸出入の商売がとんとん拍子に運んでゆくこと、横浜に近々支店を持つ計画などを語った。
それからの宝沢と伊東とは、少なくも一年に二、三度は会っていた。――横浜に支店を持った宝沢――妻帯した彼――直一《なおいち》と名づけた子供――彼の酒癖――彼の撞球《たまつき》――彼の猟銃。
最近の宝沢はこの世界的不況にすっかり商売をしくじって、本店も支店も閉鎖して、無理な借金の中に苦闘しているとか伊東は聞いていた。
「おや、電灯が点《つ》かないのでございますか」
女中の声に初めて我に返った伊東は、弾《はじ》かれたようにバルコニーへ飛び出した。海は真っ暗で、いつか大粒の雨がスレートの屋根に重い音を立てている。
「おい、宝沢さんはまだ来ないか」
「……お見えになりませんが……さっきから、まだお戻りにならないのでございましょうか?」
「だって、乗っていったボートが戻ってこないじゃあないか。おい、早く裏の為吉《ためきち》を呼んでこい! 磯公《いそこう》を呼んでこい。宝沢が兜岩へ行っているんだ! ぐずぐずするな! 時化《しけ》が来てるぞ!」
伊東はいつにない荒々しい言葉で叫んだ。
女中が慌てて裏木戸を出ていったかと思うと、たちまちどしゃ降りになってきた。沖の空を裂いていた稲光がだんだん激しくなり、海の底を割ってくるような雷鳴が窓ガラスをびりびり震わせた。
雷雨はますます強くなってきた。疾風《はやて》が裏山を鳴らしている。
「何をしているんだ! まだ為吉は来ないのか!」
伊東は苛々《いらいら》しながら裏の小窓を開けて、雨の吹き込む中に闇《やみ》を透かしたり、また表側に回っていって、怒濤《どとう》の荒れ狂う暗い海の中に見えないボートを捜し求めた。
伊東は岩に取り縋《すが》っている宝沢の断末魔の形相を思い浮かべた。彼は部屋を歩き回っているうちに、暖炉の飾棚の上に見慣れぬ黒手帳を発見した。
「おや、宝沢の手帳だ!」
手帳の下から、ぱらりと一枚の紙片が落ちた。それには鉛筆で、“ストーブに入るべきもの”と走書きがしてあった。
伊東はかねがね、宝沢とお玉との交渉を漠然とは想像していたが、その手帳によって彼の想像が誤りでなかったことをはっきりと知った。その間の消息を知っている武太郎が、いかに二人を悩ましたかということは想像に余りある。……宝沢は猟銃を奪い返すために武太郎の後を追っていった。……人里離れた山中で半狂乱の武太郎と宝沢との間に、どのような激しい言葉が交わされたであろう。……伊東はその朝、検視の折、武太郎の無残に切断された右|大腿部《だいたいぶ》の内側に銃砲による弾痕《だんこん》を密《ひそ》かに発見して、急に口を噤《つぐ》んでしまったことを思い合わせた。そして、彼はさらに黒手帳によって、あの物静かな健《けな》げな奥さんが受取人となっでいる二万円の生命保険金は、一人息子の直一を立派に教育していく財産になるのであろうことを知った。
伊東は部屋を横切ってもう一度暗い海に見入ったが、そこにはもう恐ろしい宝沢の断末魔の顔は浮かんでこなかった。
為吉・磯公、その他村の若者たちは続々集まってきたが、風雨はますます吹き募って船を下ろすことすらできなかった。
午後十時、風はいくらか凪《な》いだ。高いうねりをものともせず甲斐がいしく救助に向かった若者たちは、水に浸って漂っていた伊東家のボートを曳《ひ》いて空《むな》しく引き揚げてきた。
伊東は愛する懐かしい人たちばかりで埋まった死人台帳に宝沢の名を書き込み、その日の日記の終わりに――宝沢法人、鴨猟《かもりょう》のため、兜岩に赴き、暴風雨に遭難、溺死《できし》す。享年四十二歳。
と付記した。
底本:「清風荘事件 他8編」春陽文庫、春陽堂書店
1995(平成7)年7月10日初版発行
入力:大野晋
校正:ちはる
2001年4月30日公開
2006年4月15日修正
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