イル・カフェ』を立ち去った。

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 電灯が点《つ》くころから、ぼつぼつ中折帽子やステッキが階段を上がってきた。騒がしいジャズと煙草《たばこ》の煙と、屈託のない女給たちの笑声に、賑《にぎ》やかなカフェの夜が織り出されていった。
 早番だった波瑠子は五時の交替にそっと四階へ上がって、だれもいない部屋の片隅で手紙を書いていた。彼女はあらかじめ文案をしていたとみえ、ペンを執るとすらすらと手紙を書き終わってそれを懐にしまい、鏡台の前で顔を直しているところへ、カフェの経営者の海保《かいほ》が入ってきた。
 波瑠子は鏡の中に映った異様な男の目を見ると、いやな顔をして立ち上がった。
「旦那《だんな》、またいらしったの。わたし一人のときにこんなところへいらしったりしちゃあ、みなに痛くもないお腹《なか》を探られて、わたし困るわよ」
「人の思惑なんぞはどうだって構わないじゃあないか」
「そうはいきませんわ。わたしだってこんないんちきな稼業をしていますけれども、木偶人形《でくにんぎょう》じゃあありませんからね。見栄《みえ》も外聞もありますわ」
「波瑠ちゃん、なにもきみのように、そう世の中を狭
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