いったいどうしたっていうの?」
「わたしね、お店を辞めたのよ。もっともこの間じゅうから腹の内で決めていたんだけれども、あの親父《おやじ》があんまりいけ図々《ずうずう》しくっていやになってしまって、予定を繰り上げたわけだわ」
「じゃあ、海保は今度はあなたに白羽の矢を立てたのね。もっとも、あなたは奇麗だからね」
 洋装の女はいくらか嫌みっぽく言った。
「何を言っているのばかばかしい! この人はそんなことじゃあ、まだ未練があるのね」
「でも、あの人の本当の性質はあんなじゃあなくってよ。みんな花江《はなえ》の指金だわ」
「その花江だってあんな目に遭ってさ、いまは東京にはいないっていうじゃあないの」
「本当にそんな人かしら。でもわたし、半年もこうして遊んでいるうちに、世の中なんて何をしたってろくなことはないとつくづくいやになってしまったわ。わたし、店にいたときがいちばん幸せだったのよ」
「百合《ゆり》ちゃん、あの男と撚《よ》りを戻そうなんて弱気になっちゃだめよ。いっそ方針を変えて、一年や二年遊んで暮らせるだけ搾《しぼ》り取っておやりなさいよ」
 波瑠子はその時、数間先の自動車の傍《そば》に立っている人影を見て、いまいましげに肩を竦《すく》めた。そこにはまた、ハルピンから来た男の蛇のような目が光っていた。
 二人は急に声を潜めてなにやら話し合っていたが、街路樹の葉が疎《まば》らに影を落としているアスファルトの道路を横切って東京駅地下室の美容院の階段を下りていった。
 二人は二時間ほどして東京駅の八重洲口《やえすぐち》の改札を出ると、とある横町の清涼飲料水の看板の出ている酒場の路地へ姿を消した。
 高い建物の上に遅い月が懸かっていた。夜はまだ更けてはいないが辺りは不思議に静かで、どこかのダンスホールから床を踏む靴と寂しいサキソホンの音が聞こえてくる。
 清涼飲料水の看板を掲げた酒場の薄紫色のガラス扉がおりおり開いて、洋服を着た男たちが出たり入ったりしていた。
 十一時を少し回ったころ、その路地から最前の二人が出てきて左右に別れた。

       3

 数寄屋橋《すきやばし》外の『ナイル・カフェ』では、八時に外出した主人の海保が十一時に戻ってきて、風邪を引いたとみえ寒気がすると言い、ウイスキーを二、三杯ひっかけて棟続きの寝室へ退いてしまった。十一時に店を仕舞って、通いの女給たちは連れ立って帰っていった。四階に泊まっている蔦江《つたえ》・信子・かおるの三人は、夕方店を出たきり戻らない波瑠子のことを気遣いながら床に就いた。
 午前二時、家じゅうが寝静まったとき、みのりはそっと寝床から辷《すべ》り出た。
 彼女は窓の前の障子の面を細い指で撫《な》でた。そこには昼間波瑠子が書いていった次のような点字があった。
 みのりは指先でその通信を消してしまったのち部屋を出て、階段を上りはじめた。彼女は一歩ごとに注意深く辺りの音に耳を澄ました。家の中は依然としてひっそりしている。遠くに自動車の警笛が聞こえる。
 みのりは壁から壁を伝って、表階段の正面にある青銅のビーナスの前に近づいた。その時、街灯の射《さ》し込む薄明かりの中に黒い人影があったことには、敏感な彼女も気づかなかった。

 四階の部屋に寝ていた信子は、どこかで人の呼ぶような声を聞いて目を覚ました。それは確かに店のほうであった。
「ちょっと、ちょっと、起きてちょうだい! 下で何か変な音がしたわ」
 彼女は隣のかおるを揺り起こした。
「あなた、酔っ払っていたから夢でも見たんじゃあない?」
「いいえ、確かに女の声がしたわよ」
「波瑠子さんじゃあないかしら」
 その時、階下《した》の廊下をがたがた走っていく靴音が聞こえた。
 信子は素早く電灯を点《つ》け、かおると二人で廊下へ出ようとすると、蒲団《ふとん》を被《かぶ》って慄《ふる》えていた蔦江は一人部屋に残されるのが恐ろしさに、歯を鳴らしながらその後に続いた。
 三人はひと塊になって最初の階段を下りたところで、信子が、
「鈴木《すずき》の小父《おじ》さん! 早くお店に来てください!」
 と呼び立てた。
 その時、階下でも怪しい物音を聞いたとみえて、方々で戸の開く音がした。寝巻のまま階段を跳び上がってきたのは小使の鈴木であった。
 パーラーにぱっと電灯が点いた。見ると青銅《ブロンズ》のビーナスの像の下に、白い寝巻を着たみのりがべったりと床に坐《すわ》っていた。
「どうしたんです、お嬢さん!」
 鈴木が傍《そば》へ寄って少女を抱き起こした。
「まあ、みのりさん、どうなすったの?」
「怪我《けが》でもなすったのじゃあないの!」
 階段を駆け下りた女たちは、労《いたわ》るようにみのりを長椅子《ながいす》に連れていった。
 そこへ、ワイシャツの上にガウンを羽織った主
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