ば、あんなダイヤモンド一つぐらいじゃあ償われないものだわ」
「親父に関することなどは、ぼくはちっとも知りたくない。ぼくはただ、あなたの昔の愛を呼び覚ましたいのだ。ぼくはいまだって、まだ真剣にあなたを思いつづけているのだ。あなたの返事一つで、ぼくは即座に執念深い悪魔にもなれる。波瑠さん、ぼくはここへ酒を飲みに来たのでもなく、みずからの覚悟を述べに来たのでもなく、あなたの最後の返事を聞きに来たのですよ」
 しばし沈黙が続いた。その間に、帳場の時計が忙《せわ》しく四時を打った。
 いちばん年齢《とし》の若い女給の信子《のぶこ》は遠くから気遣わしそうに波瑠子を眺めていたが、やがて用ありげに二人の傍《そば》を通り抜けて、衝立《ついたて》の背後をひと回りしてもとのところへ戻った。そして、陽気なジャズをかけはじめた。
 波瑠子はついに決心して言った。
「では今晩、お店を仕舞ってから十一時半に蒲田新道《かまたしんみち》の水明館《すいめいかん》でお会いしましょう。そして、もう一度よく相談をしましょう」
 二人はそれからいっそう声を低めて、何事か話し合った。そして“ハルピンから来た男”は間もなく、その『ナイル・カフェ』を立ち去った。

       2

 電灯が点《つ》くころから、ぼつぼつ中折帽子やステッキが階段を上がってきた。騒がしいジャズと煙草《たばこ》の煙と、屈託のない女給たちの笑声に、賑《にぎ》やかなカフェの夜が織り出されていった。
 早番だった波瑠子は五時の交替にそっと四階へ上がって、だれもいない部屋の片隅で手紙を書いていた。彼女はあらかじめ文案をしていたとみえ、ペンを執るとすらすらと手紙を書き終わってそれを懐にしまい、鏡台の前で顔を直しているところへ、カフェの経営者の海保《かいほ》が入ってきた。
 波瑠子は鏡の中に映った異様な男の目を見ると、いやな顔をして立ち上がった。
「旦那《だんな》、またいらしったの。わたし一人のときにこんなところへいらしったりしちゃあ、みなに痛くもないお腹《なか》を探られて、わたし困るわよ」
「人の思惑なんぞはどうだって構わないじゃあないか」
「そうはいきませんわ。わたしだってこんないんちきな稼業をしていますけれども、木偶人形《でくにんぎょう》じゃあありませんからね。見栄《みえ》も外聞もありますわ」
「波瑠ちゃん、なにもきみのように、そう世の中を狭く見ることはないよ。これでも相当な懸賞はついているつもりなんだからね」
「まあ! 懸賞? 失礼しちゃうわね。懸賞というのは、二、三枚の着物を買ってくだすって、六カ月定期のお内儀《かみ》さんにしておくということでしょう」
「冗談じゃあない、いつまでそんな馬鹿《ばか》をしていられるものじゃあない。わたしは本気で言っているんだよ。娘のみのりも不思議にきみに懐いているんだから、あの子もきみのような保護者ができればどんなに幸福かしれない」
「それとこれは別問題よ。……ああ、わたし、お店へ出なくてはいけないわ」
 波瑠子が先になって廊下へ出ると、男は、
「波瑠ちゃん、そんな強いことを言って男に恥をかかせるものじゃあない。もう一度考え直してみておくれ。きみだっていつまで女給をしているわけでもなかろうから、そのほうがきみのためじゃあないかね」
 と冗談らしく後ろから波瑠子の肩を抱えた。
 それまでぶりぶりしていた波瑠子は急に何か思いついたらしく、がらりと態度を変えた。
「でもわたし、いつもみんなに立派な口を利いているんですから、つまらない噂《うわさ》なんか立てられたくないのよ」
「そこは如才なくやるさ」
「では、どこかへ行くの? 蒲田の水明館?」
 波瑠子は肩を揺すって笑いながら言った。
「さすがに知っているね」
「だって、お店に来るお客さんたちがよく誘いますもの。耳にたこ[#「たこ」に傍点]ができるほど聞いていますわ」
 二人はその晩の十一時半に、水明館の横手で落ち合う約束をした。
 波瑠子は店へは顔を出さずに、非常口から裏梯子《うらばしご》を伝ってみのりを捜しに行ったが、少女が部屋に見えなかったので、小楊枝《こようじ》の先で障子に点字を書き残してふたたび店へ戻った。彼女は朋輩《ほうばい》の信子に、
「わたし十分ばかりお店を空けるから、旦那が聞いたらなんとか要領よくやっておいてちょうだいね。それからここに書いてあることは明日《あした》でいいのよ。頼まれてちょうだいね」
 と最前の手紙を渡して、暗くなった往来へ消えてしまった。
 それから一時間ほどして、波瑠子は丸ビルの明治側の街路樹の陰に立っていた。そこへ外套《がいとう》の襟を立てた洋装の女が足早に歩いてきた。
「待って?」
「ええ、十分ばかり。でも、わりあいに早く来られたわね」
「電話を聞いてすぐ飛んできたのよ。で、波瑠ちゃん、
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