人の海保が慌ただしく駆けつけた。
「みのりか、いったいどうしたんだ? おまえはなんでこんなところへ来たの?」
 少女は父親の言葉にもだれの言葉にも答えず、電灯のほうに顔を向けていたが、長い睫毛《まつげ》の間に涙が光っていた。
「どこか怪我でもなすったのじゃあないかしら、ええ? 大丈夫?」
 信子が顔を寄せて気遣わしそうに訊《たず》ねると、少女は大きく頷《うなず》いた。
「わたし、夢現《ゆめうつつ》に女の呻《うめ》き声を聞いて目を覚ますと、お店をだれか駆けていく足音を聞いたんですよ。泥棒が入ったんじゃあないでしょうか」
 信子はだれに言うともなく言った。
「わたしも、ただならない物音を聞いて飛んできたんです」
 鈴木は裏の廊下から、階段下の便所のほうを見回りに行った。
 帳場のキャッシュ・レジスターを検《しら》べていた海保は、正面の棚を見回しながら、
「別にどこにも異常のないところを見ると、泥棒でもないらしいな」
 と、独り言のように呟《つぶや》いた。
 家じゅうをひと回りして戻ってきた鈴木は、
「旦那《だんな》、裏口の木戸が開いておりましたから、非常口を抜けて、あそこから逃げたに違いありませんよ」
 と言った。
「そう言えばさっき、わたしが物音を聞いて起き上がったとき、裏木戸のほうに靴音がしたようだった」
 と、海保が言った。
「マル公はいつもいらないときにあんなに吠《ほ》えるくせに、なんだって今夜はおとなしいんでしょうね。わたし、どうしたんだか寝つかれないで、ずっと前から目を覚ましていましたわ」
 と、蔦江が言った。
「あいつはこの節すっかり耄碌《もうろく》している。それにことによったら泥棒ではなくって、店の常連の中の痴漢が一杯機嫌で若い人たちの部屋を覗《のぞ》きに来たのかもしれない」
 と、主人が言った。
「おお気味が悪い」
 蔦江は肩を竦《すく》めた。
「だけれど、みのりさんはどうしてお店へなんかいらしったのでしょう?」
 信子は腑《ふ》に落ちないらしく言った。
 人々は顔を見合わせた。しばらくしてみのりは、
「わたしは夢を見て、寝惚《ねぼ》けてこんなところへ来てしまったの。そして、だれかに突き飛ばされて気がつきましたのよ。けれども、それも夢かもしれませんわ」
 と、初めて唇を開いた。
「ああ、そうかもしれない。とにかく風邪を引くといけないから、おまえは部屋へ帰ってお寝《やす》み。みなも早く寝たほうがいい。……べつだん何を盗まれたというわけじゃあないから、だれにも言わないほうがいい。警察へ聞こえて調べに来られたりすると、店の邪魔になるからね。さあ、もう一度よく戸締りを検《あらた》めて寝るとしよう」
 と、主人は言った。
 三人の女たちは押し合うようにして、狭い階段を上がっていった。
「かわいそうにね、みのりさんは波瑠子さんのことを思って見に来たのよ」
「波瑠子さんは、本気にもう店へ帰らないつもりなのかしら」
「きっと帰らないでしょう。わたしに荷物を親戚《しんせき》へ送ってくれなんて、置き手紙をしていきましたもの」
 と、信子が言った。

       4

『ナイル・カフェ』の奇怪な一夜が明けて、翌日の午前十一時に蒲田署の刑事が主人に会いに来た。
 刑事の話によると、その朝、蒲田水明館の裏手の竹藪《たけやぶ》に若い女の惨殺死体が発見された。絞殺したうえ顔面がめちゃめちゃに叩《たた》き潰《つぶ》してあって人相は分からないが、推定年齢二十四、五歳、身長五尺二寸、頭髪の濃い色白の女で、黒と黄の斜め縞《じま》のお召しの着物に緑色の錦紗《きんしゃ》の羽織を着ている。頭髪は美容院で結ったらしく、大きくウエーブをつけた束髪であった。ハンドバッグその他の持ち物はなく、身元はいっさい不明であったが、袂《たもと》に『ナイル・カフェ』のナプキン紙が入っていたのと、服装が女給風であったので聞き合わせに来たのであるという。
 家の者たちは驚いて詳しく様子を訊《き》くと、前夜無断で店を出たっきり帰らない波瑠子らしかった。ことに服装は、当夜の波瑠子の着衣に符合している。
 絞殺したうえ顔面を叩き潰してあるとは、よほど深い恨みを持った者の所業に違いない。
 信子は前日波瑠子から託された手紙を刑事の前に広げた。

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――信ちゃん、わたしは都合の悪いことがあって、しばらくは身を隠さねばならなくなったから、明日にでもわたしの荷物をひとまとめにして、左記へ送ってくださいね。マスターにも、あなたは何も知らないような顔をしていてちょうだい。運賃としてここに五円入れておきます。
 いずれ時が来たら会いましょう。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]波瑠子
(届け先、府下|目黒町《めぐろまち》八四一、中山《なかやま》とし方)

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