いったいどうしたっていうの?」
「わたしね、お店を辞めたのよ。もっともこの間じゅうから腹の内で決めていたんだけれども、あの親父《おやじ》があんまりいけ図々《ずうずう》しくっていやになってしまって、予定を繰り上げたわけだわ」
「じゃあ、海保は今度はあなたに白羽の矢を立てたのね。もっとも、あなたは奇麗だからね」
洋装の女はいくらか嫌みっぽく言った。
「何を言っているのばかばかしい! この人はそんなことじゃあ、まだ未練があるのね」
「でも、あの人の本当の性質はあんなじゃあなくってよ。みんな花江《はなえ》の指金だわ」
「その花江だってあんな目に遭ってさ、いまは東京にはいないっていうじゃあないの」
「本当にそんな人かしら。でもわたし、半年もこうして遊んでいるうちに、世の中なんて何をしたってろくなことはないとつくづくいやになってしまったわ。わたし、店にいたときがいちばん幸せだったのよ」
「百合《ゆり》ちゃん、あの男と撚《よ》りを戻そうなんて弱気になっちゃだめよ。いっそ方針を変えて、一年や二年遊んで暮らせるだけ搾《しぼ》り取っておやりなさいよ」
波瑠子はその時、数間先の自動車の傍《そば》に立っている人影を見て、いまいましげに肩を竦《すく》めた。そこにはまた、ハルピンから来た男の蛇のような目が光っていた。
二人は急に声を潜めてなにやら話し合っていたが、街路樹の葉が疎《まば》らに影を落としているアスファルトの道路を横切って東京駅地下室の美容院の階段を下りていった。
二人は二時間ほどして東京駅の八重洲口《やえすぐち》の改札を出ると、とある横町の清涼飲料水の看板の出ている酒場の路地へ姿を消した。
高い建物の上に遅い月が懸かっていた。夜はまだ更けてはいないが辺りは不思議に静かで、どこかのダンスホールから床を踏む靴と寂しいサキソホンの音が聞こえてくる。
清涼飲料水の看板を掲げた酒場の薄紫色のガラス扉がおりおり開いて、洋服を着た男たちが出たり入ったりしていた。
十一時を少し回ったころ、その路地から最前の二人が出てきて左右に別れた。
3
数寄屋橋《すきやばし》外の『ナイル・カフェ』では、八時に外出した主人の海保が十一時に戻ってきて、風邪を引いたとみえ寒気がすると言い、ウイスキーを二、三杯ひっかけて棟続きの寝室へ退いてしまった。十一時に店を仕舞って、通いの女給たち
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