中の“都合の悪いこと”について、何か心当たりはないかという刑事の質問に、信子は、
「このごろお店へたびたび見えるハルピンから来た男をたいへんいやがっていましたから、そんなことじゃあないでしょうか」
と言った。
刑事はその男についていろいろと訊き糺《ただ》したが、ただ波瑠子とは以前からの知り合いらしかったということだけで、名前さえ知る者はなかった。
主人と信子とかおるの三人は刑事に伴われて、惨殺死体を見に行った。
それは確かに波瑠子の死骸《しがい》であると、三人が認定した。
死体は『ナイル・カフェ』に引き取ることになった。波瑠子の身元保証人が実在の人物でなかったことが分かったからである。
刑事は波瑠子の置き手紙によって荷物の届け先を調べ、その辺から何か犯罪の手掛かりを掴《つか》もうとした。事実、波瑠子の身元は皆目分かっていない。ただハルピン育ち、神戸《こうべ》にも大阪にもいたことがあるというだけで、現在名乗っている名前さえ虚僞か本当か分からない。
府下目黒町八四一番地、中山としというのは白米商であった。主婦は、
「波瑠子さんという方は一年ほど前に家の二階に下宿していた人で、あれでも家に半年もいらしったでしょうかね。おとなしい、いい方でしたよ。ひところは葉書などを寄越しましたが、この節はどこにいらっしゃるかいっこうに存じません」
と言うのであった。
5
波瑠子の遺骸《いがい》はカフェに続いた海保ギャレージの一室に置かれ、その前の机の上に貧しい花が手向けてあった。
女給たちは代わり合って焼香した。あまりに急な、しかも尋常でない朋輩《ほうばい》の死に女たちは嗚咽《おえつ》する者もあった。目を赤く腫《は》らした信子は波瑠子と特別親しかったので店には出ず、なにかと葬儀の用意をしていた。
主人の海保は青い顔をして黙り込んでいるし、小使の鈴木は鼻を詰まらせている。だが、人々の中でだれよりもいちばん悲しく見えたのはみのりであった。彼女は目が見えないうえに、口まで利けなくなったように口を開かず、影法師のように部屋の片隅で坐《すわ》っていた。
心ばかりの告別式が済んで、いよいよ納棺するときが来た。するとみのりは不意に立ち上がって、泳ぐような手付きをしながら柩《ひつぎ》の傍《そば》へ進み寄った。そして、死骸《しがい》の上へ最後の愛撫《あいぶ》をして
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