いたが、経帷子《きょうかたびら》に包まれた腕に触れたとき、
「あっ!」
と驚愕《きょうがく》の叫びを上げた。彼女は顔色を変えて、なにやら訳の分からぬことを口走りながら部屋を出ていってしまった。
翌日、みのりは信子に会ったとき、
「わたし、どうしても波瑠子さんが亡くなられたとは信じられないのよ。いまでもあの方がどこかでわたしを待っていてくださるような気がするの。……もしあの方が本当にこの世にいないとすれば、わたしのような黒鳥《くろどり》は生きている甲斐《かい》はないわ」
と、感傷的に言った。
みのりはそれから三日目に家出をしたが、行った先はその日のうちに分かった。それは横浜に住んでいる彼女のピアノの先生からの手紙に、みのりは東京へ帰りたくないと言っているから、差し支えなければ当分預かってもよいと言ってきたからだった。
海保はチョッキの内隠し袋に縫い込んだ、ダイヤモンドの膨らみを上着の上から撫《な》でて、
「これでいい、月賦の自動車は引き上げられそうだし、店は倒れかかっているし、夜逃げには誂《あつら》え向きだ。足手纏《あしでまと》いになると思っていたみのりは自分から片をつけるし、まったく幸運てやつは向こうからぶつかってくるものだよ」
と呟《つぶや》いた。
彼は部屋の中を見回して、あれこれとめぼしいものを物色しながら、三年前に行った上海の賑《にぎ》やかな新世界|界隈《かいわい》を思い浮かべていた。
海保はうるさく付き纏う情婦の百合江《ゆりえ》を殺してしまった。そして、その死体を完全に処分してしまった――少なくとも彼はそう思っていた――。それから、かねがね目をつけていた波瑠子の宝石をやすやすと手に入れることができた。彼は世の中は案外甘いものだと、心の底で赤い舌を出した。
底本:「清風荘事件 他8編」春陽文庫、春陽堂書店
1995(平成7)年7月10日初版発行
入力:大野晋
校正:ちはる
2001年4月30日公開
2006年4月14日修正
青空文庫作成ファイル:
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