帰ってお寝《やす》み。みなも早く寝たほうがいい。……べつだん何を盗まれたというわけじゃあないから、だれにも言わないほうがいい。警察へ聞こえて調べに来られたりすると、店の邪魔になるからね。さあ、もう一度よく戸締りを検《あらた》めて寝るとしよう」
と、主人は言った。
三人の女たちは押し合うようにして、狭い階段を上がっていった。
「かわいそうにね、みのりさんは波瑠子さんのことを思って見に来たのよ」
「波瑠子さんは、本気にもう店へ帰らないつもりなのかしら」
「きっと帰らないでしょう。わたしに荷物を親戚《しんせき》へ送ってくれなんて、置き手紙をしていきましたもの」
と、信子が言った。
4
『ナイル・カフェ』の奇怪な一夜が明けて、翌日の午前十一時に蒲田署の刑事が主人に会いに来た。
刑事の話によると、その朝、蒲田水明館の裏手の竹藪《たけやぶ》に若い女の惨殺死体が発見された。絞殺したうえ顔面がめちゃめちゃに叩《たた》き潰《つぶ》してあって人相は分からないが、推定年齢二十四、五歳、身長五尺二寸、頭髪の濃い色白の女で、黒と黄の斜め縞《じま》のお召しの着物に緑色の錦紗《きんしゃ》の羽織を着ている。頭髪は美容院で結ったらしく、大きくウエーブをつけた束髪であった。ハンドバッグその他の持ち物はなく、身元はいっさい不明であったが、袂《たもと》に『ナイル・カフェ』のナプキン紙が入っていたのと、服装が女給風であったので聞き合わせに来たのであるという。
家の者たちは驚いて詳しく様子を訊《き》くと、前夜無断で店を出たっきり帰らない波瑠子らしかった。ことに服装は、当夜の波瑠子の着衣に符合している。
絞殺したうえ顔面を叩き潰してあるとは、よほど深い恨みを持った者の所業に違いない。
信子は前日波瑠子から託された手紙を刑事の前に広げた。
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――信ちゃん、わたしは都合の悪いことがあって、しばらくは身を隠さねばならなくなったから、明日にでもわたしの荷物をひとまとめにして、左記へ送ってくださいね。マスターにも、あなたは何も知らないような顔をしていてちょうだい。運賃としてここに五円入れておきます。
いずれ時が来たら会いましょう。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]波瑠子
(届け先、府下|目黒町《めぐろまち》八四一、中山《なかやま》とし方)
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