れはいい塩梅でした。あんな男には決してお会いにならない方がよろしゅうございます。兎に角、こんな危険なところは一刻も早く逃げましょう。私は上までいって昇降機で、真直に下りますから、貴郎は此方からお帰り遊ばせ。またいつか好い機会にお目にかかりましょう」モニカは軽く会釈をして階段を上っていってしまった。
 私はモニカの言葉ほど、ルグナンシェに対して恐怖も不安も持っていなかったが、彼女と恐怖を倶にしてここを逃出すという事は何か嬉しいような気がした。出来れば昇降機より早く階下へ馳け下りて、もう一度彼女と会う機会を作りたいと考えた。
 私は一気に階段の下へ着いて、前額に集ってくる汗を拭いながら、広間の方を見廻したが、私の眼に入ったのは美しいモニカの姿ではなくて、ひよら[#「ひよら」に傍点]長いカクストン探偵であった。
 氏は私を見ると、すぐ手をあげて呼んだ。
「君も、ルグナンシェを怪しいと思っているのか。丁度いいところだ。吾々もあの男を張りに来ているのだが、ルグナンシェという男が果して柏君を訪ねてきた仏蘭西人かどうか見てくれ給え」
 私はカクストン氏がどうしてルグナンシェと私との関係を嗅出したのかと思って、悸《ぎょっ》としたが、柏云々という言葉で、多分柏からあの日の出来事だけを聞いたのであろうと思って、いくらか安堵した。
 私共はそこで、小一時間も見張していたが、竟《つい》にルグナンシェは姿を見せなかったので、五階の彼の部屋へいって見る事にした。私は無論その前に部屋へ入った事は、おくびにも出さずにカクストン氏の後に従った。
「畜生! 狐のような奴だ。既う嗅付けてしまった」先に立って入口の扉をあけたカクストン氏は吐棄てるように呟いた。主のない部屋は窓も箪笥の抽出も開放しになって、彼の所持品は悉く紛失《なくな》っていた。
「君は柏君の描いた婦人の絵を、特にルグナンシェが盗んだという推理をどう説明するね」
 カクストン氏は意味あり気にいった。私はそれを説明する理由を沢山持っていたが、
「さア……」と曖昧な応答をしておいた。
 私はそれから間もなく、カクストン氏に別れて、グレー街へ帰った。その街はいつものように寂しく睡っていた。どこの家も老人計りの棲家のように、窓に厚いカーテンを下している。敷石の上を照すのは、街灯の光だけである。
 ガスケル家の前には、見馴れぬ貨物自動車が一台並んでいた。
「何だろう!」私は急に歩調を早めた。
 貨物自動車には箱詰になった荷物や、トランクが満載してあった。もう一台の方には二人の男が暗闇の中で、黙々と荷物を積込んでいた。私は石段を馳上ってゆくと、玄関先に立っていた婆さんが、
「旦那様がこのお手紙を貴郎に遺していらっしゃいました。貴郎も早く御自分の荷物を出して下さい」といって、分厚な角封筒を渡した。
 ガスケル老人の手紙には簡単に――急に米国へ向け出発する事になった。お前の旅券及び乗船券等は既《すで》に用意してある。俺は一足先にリバプールへ赴く。出帆は明日午後三時半である。お前は明朝七時、秘密にソーホー街八十八番を訪ね、品物を受取り、直にユーストン駅よりリバプール港行の列車に乗れ――と認《したた》めてあった。そして小遣いとして思掛けぬ莫大な金が封入してあった。
 私は余り突然の事で、少し躊躇したが、最初ガスケル家に雇われる時の条件の一つに、いつ何時でも老人に随行して旅行するという事があったのを思出した。予々《かねがね》世界を旅行するという事は私の大きな希望であった。
 私にとってこんないい条件はない。然しながらこれ程の幸運に面しながら、私の心が浮立ないのは、恐らくモニカのことが頭脳の何処かに潜んでいたせいであろう。とはいえガスケル老人に従ってゆくという事は、私の生活である。性来なまけものの私は、この米国行を断って新に職を求むる為に努力する程の気力はなかった。
 私は自分の全財産を詰めた貧しい二個のトランクを運送屋に渡すと、先ずこの事を柏に告げる為に再び家を出た。私は絵画を失って悄気返っている柏に、自分だけのいい話をしにゆくのを、少し可哀相だと思っていたが、部屋へ入ると、柏は調子外れなヴィオリンを弾きながら、陽気に流行唄を歌っていた。
「おい、飯田! 今日は奢るぞ」柏は楽器を寝台の上へ投出して勢よくいった。
「どうした。絵が出てきたのか?」
「盗んだ奴が金を届けてくれたんだ。誰だか名前は判らないが、有難い事だ。千円あれば当分内職なんかせずに絵を描いて暮せる」私は柏の為に金が入った事を喜ぶと共に、不思議な買主の事を考えさせられた。どうせ金を払う位なら、何故危険を冒して会場から絵を持ち出したのであろう。柏は私の米国行をきいて、
「お互に幸運が向いてきたんだよ」と心から喜んでくれた。彼は私が不意に出発する事に就ても、自分の手
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