る。ELを頭字にしたエリザベス街はそこからグレー街へゆく途中であった。
 私の訪ねあてた32[#「32」は縦中横]番の家は表扉を緑色に塗った三階の煉瓦建であった。擦り空《へ》った石段の上に立った私は襟のつまった黒い服を着た老婦人に、仏蘭西人の事を訊ねると、
「ああ、貴郎の仰有るのはルゲナンシェさんの事ですか。あの方は久時私の許にいらっしゃいましたが、一週間前に議事堂の裏手のクインス旅館とかへお移りになりました。手紙が来たら受取っておいてくれ、土曜日に取りにくるからと仰有ってでした」といって老婦人は玄関の卓子に乗っていた一通の手紙を見せた。私の眼は手紙の表に記された、美しい女文字を見遁さなかった。
「この通り、手紙が待っているのですから、今日あたりお見えになるかも知れません」
 私はそれだけきくと、横飛びにクインス旅館へ馳付けた。
「ルグナンシェさんは居りますか」私は帳場で二三の男と立話をしている若い番頭に問いかけた。
「ルグナンシェさんなら、たった今、その辺にいたっけ。部屋は五階の65[#「65」は縦中横]番ですよ」
 番頭はちら[#「ちら」に傍点]と私の方を見ただけで、すぐ向うをむいてしまった。
 丁度紅茶の時間であった。古い、疲労れたような、建築で凡てが重く煤けていたが、却ってそれ等が由緒ありげに見えた。人々が絶えず出たり、入ったりしている。玄関の外には数台の自動車が駐っていた。
 私は広間の食堂を、一通り見てきてから、昇降機にはよらずに根気よく五階へ上った。65[#「65」は縦中横]番は二側目の廊下で、すぐ判った。ルグナンシェはいなかったがそのまま帰るのも何となく業腹だったので、四度目に最後のノックをしてから、把手を廻して扉を押すと、鍵がかかっていないで、思掛けなく内側に扉が開いた。
 私はそこまできて、本能的に鳥渡躊躇したけれども、何かを探り出そうとする本来の目的の為にのぼせ[#「のぼせ」に傍点]ていたせいか、次の瞬間には案外落着いた気持で、吸込まれるように部屋へ入った。
 確に例の仏蘭西人の部屋である。帽子掛にかかっている鼠色の中折帽子にも見覚えがある。私は一わたり部屋を見渡した後で、引手のついている化粧台の抽出しを立続けて開けると、襟飾《ネクタイ》の入っている箱の中に一葉の写真を見付けた。
「彼女の写真だ。いよいよ怪しいぞ」と私は心の中で叫んだ。それは数年前に撮った紛れもない彼女の写真だった。ナタールのダアバン市で撮ったもので、裏面に親愛なるマキシム嬢へ、モニカよりと記してあった。
「モニカ、モニカ、何という優しい名前であろう」私は初めて知った彼女の名前を繰返した。
 私がその部屋にとどまっていたのは非常に長い間のように感じたが、実はごく短時間であったかも知れない。そうしているうちに、私は他人の部屋にいる事が耐らなく不安になってきた。私は手にもった写真を幾度かポケットに入れようとしたが、思切って元の抽出しに投込んだまま、廊下へ飛出した。
 せかせか[#「せかせか」に傍点]と呼吸をきって三階まで下りてくると、階段の湾曲《カーブ》のところで下から馳上ってくる絹擦れの音をきいて驚いて足を停めた。どうして婦人が昇降機によらずに裏階段を馳上ってくるのであろうと不思議に思った。それよりも、もっと驚いた事は夢にも忘れた事のない美しいモニカが、私の眼前に現われた事である。
「まア!」モニカの唇から微かに驚愕の叫びが洩れた。
「矢張り、僕を臆えていて下すったのですか」私はすっかりあが[#「あが」に傍点]ってしまって、しどろもどろ[#「しどろもどろ」に傍点]にいった。
「いつぞやの事はどうぞお許し下さいませ。止むを得ない事情があって、あんな事になったのでございますから……貴郎はここへ何しにいらっしたのですの。何誰《どなた》かをお訪ねなのですか?」モニカは私の顔を覗込むようにして親しげにいった。
「貴女も御存知でいらっしゃいましょう。ルグナンシェという仏蘭西人を訪ねてきたのです」
「ルグナンシェ? 貴郎はどうしてあんな恐ろしい男を知ってらっしゃるのです。あの男がこの旅館にいるのですか?」モニカは顔色を変えた。
「知っている訳ではありませんけれども、あの男にはいろいろな疑惑をかけているのです。その一つは私の友人の絵が展覧会で盗まれたのです。事件の起った少し前に、あの男は私の友人のところへいって頻りに貴女の事を訊ねていました」
 モニカは絵の紛失した事に就ては、余り興味を持っていないと見えて、深くは訊ねなかったが、
「あの男がここにいるとは、ちっとも存知ませんでした。私どうしましょう。あんな男に会ったら大変でございます」モニカは後へ引返そうとした。
「いいえ、ルグナンシェは部屋におりません。随分待っていましたが、帰って来ませんでした」
「そ
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