」に傍点]を切ろうとした事が、少しぐれはま[#「ぐれはま」に傍点]になってきた。何にも知らぬ柏は正直に、暮の二十九日にサボイの食堂で彼女を見掛けた事、それからヒントを得て製作にかかったという順序を述べた。柏は余り上手くない英語で彼女を最上級の形容詞で嘆美して、私をハラハラさせ、係員を微笑させた。ここでは完全に「日本人は見掛けによらぬ狡猾《カンニング》だ」という彼等の観念を覆えおおせた。
「どうも御苦労でした。又何かの機会でその婦人にお会いにならぬとも限りませんから、そんな事があったら直ぐ知らせて下さい」とカクストン氏はいった。そこへ電話がかかってきたので、氏は眼で挨拶をしながら、私共が室外へ出てゆくのを見送っていたが、
「鳥渡お待ちなさい。展覧会で絵画を盗まれたのです。それが君の出品した絵のようだ。確か君の画題は、『歓の泉』とかいいましたね」と呼びかえした。
「私の絵が盗まれましたって? それはいつです。飯田君がつい先刻見てきた計りじゃアありませんか」
柏と私は愕然として顔を見合せた。白昼衆人環視の中で、そのような大胆な行為が行われようとは到底想像も出来なかった。
「早速、会場へ行きましょう」カクストン氏に促されて、私共はボンド街に向った。
会場の前では大勢の人々が凝《かたま》り合って喧しく盗難事件の噂をしていた。一時閉場された会場の非常口から入ってゆくと、係員達が空間になった壁の前に立って、善後策を評議中であった。
「会場に誰もいなかったのですか?」カクストン氏が人々を見廻しながらいった。
「いないどころではありません。一番|混雑《こ》んでいる最中でした。尤も看守人は丁度隣室を見廻っていた時でした」世話人のひとりが答えた。
「入場者は絵画が現場から運び去られるのを見ていたのだそうですが、犯人が余り落着払っていたので、出品者が何かの都合で、自分の絵を外してゆくのだと思ったという事です。その男は絵画の前に集っていた人々に、愛想よく会釈しながら、ニコニコして担いでいったそうです」ともう一人の紳士が述べた。
「すると、犯人は東洋人だったのですね」とカクストン氏が訊ねると、その朝私と言葉を交えた係員が、
「その男は展覧会が開会された日から、いつもあの絵画の前に立っていましたから、私は出品者の柏さんという日本人かと思っていました。今になって考えて見ると、あれは支那人だったかも知れません。Rの音を皆なLのように発音していました。普通日本人の方だと、Lの発音が旨くゆかないようですね」とちら[#「ちら」に傍点]と私共の方を見ながらいった。事実私共はLとRの発音では、下宿の内儀さんからまで、やかましく云われていたのである。私の頭脳の中には柏の下宿の入口で擦れ違った仏蘭西人の顔が浮んでいた。屹度あいつが支那人を手先に使って盗ませたに違いないと思った。然し私がここで仏蘭西人の事などを手柄顔に持出すと、ついそれからそれへと糸をひいて、彼女の事にまで云い及ばねばならぬ破目になると思って、秘密の上に、また秘密を重ねてしまった。その代り私は柏の為に素人探偵の役を勤めて、必ずあの仏蘭西人を探出して絵を取戻そうと決心した。私はどうしてもあの仏蘭西人を犯人とひとりぎめにしていたのである。
私共はカクストン氏を遺して会場を出た。柏はすっかり気抜けがしたように呆乎《ぼんやり》していて、碌に私の言葉に返事もしなかった。私は最初柏を下宿まで送っていって、気持を引立ててやろうと思ったが、私には考える事があったので、公園の角で、
「おい、そう悄気《しょげ》るなよ。二三日見て居給え、君の絵は屹度探し出して見せるよ」と彼の肩を叩いて別れた。
睡ったような沈滞した午後であった。高い建物の間々から幾筋も往来へ射込んでいる赤い西日の中で、黄色い塵埃が金粉を吹飛したように躍っていた。
私は塵埃をかぶった靴の先を視詰めながら、様々な事を考え耽っていた。その一つは矢張り「彼女」の事であった。「彼女」は何故あの晩、私に行先をピムリコと云わせておいて、中途からV駅の西口で降りたのであろう。矢張り私にまで行先を晦ます為であったのであろうか。「彼女」の住居はベーカー街であるのに、それと全く反対な方向へ逃げていったのはどういう理由であろう!
私は識らず識らず、V駅の西口まで来てしまった。尤もそこから私の住んでいるガスケル家へゆくには、さして遠廻りでもなかった。淋しい街を一つ越えると、すぐそこはグレー街であった。
私の第一の仕事は、いまのところ例の仏蘭西人の居所を突止める事であった。私はそれに就いて何一つ手掛りは持っていなかったが、唯一つベーカー街の彼女の家で彼の足下から拾ってきた新聞の文字だけが頼りであった。それには El 32[#「32」は縦中横]という文字があったのをよく記憶してい
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