上に仆れていたあの男だ! 私は思わず足を停めて声をかけた。男はチラと振向くなり、逃げるように立去ってしまった。私は三階へ馳上った。
「今出ていった男は何だ、何しに来たのだ」
私は何より先に問いかけた。
「あれか? 別に僕の絵が欲しいようでもないが、僕の出品した例の『歓の泉』を激賞して、モデルは何処からきたかなどと頻りに訊いていたっけ。矢張り僕と同じく彼女の崇拝者かも知れない」
「僕もあの絵を観てきた。近来の傑作だね。君は今朝も会場へいっていたんだってね。一足違いだったよ」
「会場へなんかまだ行くものか、昨日は風邪をひいて臥ていたし、今日は出掛ようとしているところへ、あいつ[#「あいつ」に傍点]が来たんで……」
柏の言葉が終らないうちに、けたたましく呼鈴が鳴った。窓際に立っていた私はカーテンの陰から下を覗くと、玄関の石段の上に制服巡査と、大黒帽を被った自動車の運転手らしい男が立っていた。それは先夜彼女を乗せて逃した折の、自動車の運転手であった。
「これはいけない、何処か隠れ場所はないか、屋根裏? 便所?」私はオロオロしながら叫んだ。
七
呆気に取られている柏を押飛ばすようにして私は廊下へ出た。突当りは便所で行止りであるし、屋根裏へ遁《に》げる梯子も見当らなかったので、又部屋へ戻ってガリガリと古戸棚を開けたりした。寝台の下へ潜ろうとした。
そこへ扉を叩いて、警官と運転手が入ってきた。絶体絶命である。運転手は私を指差して、
「この方です。この方が暮の二十九日の晩に、ストランドの裏通りから駆けてきて、あの女を私の自動車へ乗たのです」
「一体どうしたんです。女とは誰です? 私の友人と何の関係があるんです」私が言葉を発する前に、気早な柏は一足前へ進み出ていった。
「お騒がせして相済みません。実は御承知かも知れませんが、暮の二十九日の晩、ストランドの裏小路で、殺人事件があったのです。被害者の身許も知れず、又犯人の手掛りもつかないのですが、この運転手が当夜自動車へ乗せたという婦人に嫌疑がかかっているのです。ところが今日、この運転手はボンド街の展覧会から出てきたこの方を見て尾行けて来たのです。私がここへ来ましたのは、ストランドの辻から自動車で遁げた婦人とこの方と、どういう関係があるのか、それをお訊ねする為です」と警官は割合に叮嚀にいった。運転手は顔の寸の短《つま》ったいっこく[#「いっこく」に傍点]らしい男である。彼は警官が柏に説明している間も、猜疑深い調子で、じろじろと私を睨廻《ねめまわ》していた。
「私は芝居の帰りに偶然出会った若い婦人が、何か頻りに帰途を急いでおられ、お困りの様子でしたから、タクシーを呼んであげた計りです。名前も知りませんし、無論何処へ帰ったのかも知りません」私は運転手などを相手にせず、警官に向って最初の言葉を開いた。
「婦人を自動車に乗せてから、貴殿が運転手に行先をいったそうではありませんか」
「ピムリコまでと運転手に命じました。それは、婦人が私にいったからです」
柏は話の経緯《すじみち》が了解《のみこめ》ないので、不思議そうに吾々三人の顔を見較べていた。運転手は掴みかかるような権幕で、私の前へ躍出した。
「おい、本統の事をいうがいい。ピムリコなんかへ行けばとんだ事になったっけね。中途で婦人は気がついて、V停車場の西口で降りてしまったよ。お前達のような奴がくるから、倫敦が悪くなるんだ」
「馬鹿野郎! 俺の友達に対して何をいうんだ」柏は運転手の暴言を買って出て、相手の胸を小突いた。
「乱暴しちゃアいかん。兎に角ここで争っても仕方がない。御迷惑でしょうが、署まで同行して下さい。この事件は近来での怪事件で、スコットランドヤードでは、非常な努力で犯人を挙げようとしているところですから、仮りに貴殿方が多少でも、この事件にひっかかりがあるとすれば、それが手掛りとなって、犯人の逮捕に、どんな便宜を与えるかも知れんですよ」警官は対話の間に、私共は同じ東洋人でも、日本人である事を知って、言葉にも、態度にも、親しげな様子を見せてきた。被害者が東洋人であれば格別、相手が縁の遠い仏蘭西人ときているので、常識から考えても私共と被害者と直接の関係はないと思ったらしい。
警官の言葉に従って、私達は倶々に警視庁へいった。柏は付添人という格である。
私共は窓の外にウエストミンスターの塔の見える広い部屋で、カクストンという部長の訊問を受けた。私はそこで勢いボンド街の展覧会へ柏の絵画を観にいった事を話さねばならぬ破目になったが、劇場で彼女と二人のフランス人を見掛けた事と、又ベーカー街に彼女を訪ねた事も、凡て彼女に関する事は口にしなかった。
然しカクストン氏は、柏の描いた絵が彼女である事を知っていたので、巧みにしら[#「しら
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