舞いに行こうとすると、
「旦那様は大分およろしいようですがね。ご用があったら、お呼びをするから、貴殿は御自分の御用をなさるようにとそう仰有っていらっしゃいました」婆さんは階段の下で、またガスケル氏の言葉を伝えた。
「裏の庭木戸が、昨朝も今朝も開いていたようですが、差支えないのですか」いくらか気掛りだったので次手《ついで》に訊いて見た。婆さんは鳥渡喫驚したように、まじまじ私の顔を視守っていたが、
「そうでしたか、私は少しも気がつきませんでしたよ。錠が破損《こわ》れたままで、まだ修繕もせずに抛ってあるんですよ。尤もあんなところが開いていたって格別の事はありません」婆さんは事もなげにいった。
 私は其日は終日在宅して、久振りで柏に手紙を書いた。無論私は手紙にあの晩以来の出来事を書くような無謀な事はしなかった。

 次の朝、私は老人と顔を合せた。彼は相変らず弱々しい体躯を凭椅子に埋めて新聞を読んでいたが、音声《こえ》だけはいつものように元気だった。
「すっかり、なおったよ。年をとると、から意気地がなくなって、いつ風邪を引込むか分らず、それに永びいて困る。そんな時は二日でも五日でも人間の顔を見ずに、床に入っているに限る。それが儂には最上の療法なんだよ」と笑いながらいった。私は振出人ヒギンスの署名で、無記名一千円の小切手を書かせられた。老人は私からそれを受取って手提金庫へ蔵うと、扉続きの隣室へ入って私を手招きした。そこは寂として骨董品の展覧会のように、東洋の陶器類、支那、ジャバ、及び日本の能狂言の面、瑪瑙《めのう》や翡翠《ひすい》でこしらえた花生の鉢、其の他さまざまの道具が所狭きまでに置並べてある。
「君の用事は厄介だよ。目録を作らにゃならんのだが、面倒でも一つやって下さらんかね。品物には番号と年代が記入したカードがついている筈だから、それを番号順に列記して下さい」と老人は命じた。
「承知致しました。然しよくこれ程お蒐集になりましたね。この春信《はるのぶ》などは逸品だと思います」私は驚胆の声を漏らした。老人は満足らしく頷首いた。
 それから数日の間、私は目録の製作に没頭した。ベーカー街の令嬢の事、昏睡状態に陥っていた仏蘭西人の事が気にかからないではなかったが、その晩一〇一番の家の前に立っていた怪しい男や、ボンド街の酒場から出てきた三人連のひとりや、それ等の無気味な尾行者? を思出して余熱《ほとぼり》の冷めるまで引籠っている事にした。
 土曜日の朝、柏から手紙がきた。ボンド街のXギャラリーへ絵画を出品したら、当選したから見にきてくれ、と例の如く至極簡単に記してある。その日は私の休日であったが、一二時間も仕事をすれば、手都合のいいところまで形付いてしまうので、朝から部屋へ入ってせっせと仕事にかかった。一しきり仕事のくぎりがついた時、私は何かの用で境の扉をあけて老人の居間へ入ると、ガスケル氏は凭椅子を離れて、部屋の隅にある卓の前にスックリと立っていた。彼は人の入ってくる気勢に、卓の上のものを手早く抽出へ投込んで、いつになく恐ろしい顔をして振返った。
「いかん、いかん、君は何だってことわりもなく儂の部屋へ入るのだ。どのような用件があろう共、儂の許可なくして断じてこの部屋へ入る事は出来ないという規則ではないか」老人は苦りきっている。
 私はその時、老人が卓の抽出しに隠したものを目敏く見付けた。それは燃えるように真赤な緋房ではないか。サボイ旅館の食堂で令嬢の持っていたものが、その晩殺人事件のあった現場に墜《お》ちており、それを拾って帰った私は破れ靴を穿いた乞食老爺の靴の裏に踏かくされてしまった。その緋房がどういう理由でガスケル氏の手許にあるのであろう。
 老人は不興気な様子で、探るように私の眼を凝視ていたが、じき穏かになった。老人の態度が異様であっただけに、私はその謎の緋房に就いて、一層疑惑の念を高めた。
 私はそれから三十分後に、ボンド街Xギャラリーへ入っていった。妍爛《けんらん》目を奪うような展覧会の、奥まった三号室へ入ったとき、一番最初に目についたのは「歓の泉」と題する柏の絵画であった。それは柏の所謂「愛の杯」から其儘抜出してきたような彼女が白衣の軽羅《うすもの》を纏って、日ざしの明るい森を背にして睡蓮の咲く池畔に立っている妖艶《ようえん》な姿であった。サボイの食堂でたった一目見た印象から、まるでモデルをつかって描いたように、斯くまで描上げた柏の伎倆に私は感嘆した。柏を探したが見当らないので、係員に訊ねると、
「毎日自分の絵を見に来ている、あの日本人の画家ですか、それなら先刻帰りましたよ」
 私は男の言葉を背後にきき流して直に柏の宿へ向った。玄関へ入ると出会頭に鼠色の中折帽子を被った男に擦違った。彼だ! サボイ劇場で見掛け、一〇一番の家で椅子の
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