の十字路へ出ると、遮二無二に乗合自動車へ飛乗った。
 市街は白い霧に包まれている。その中を重い自動車は素晴しい音響を立てて疾走している。川岸の工場のわきで私は車を下り、寂しいC町へ向った。私は柏を訪ねてあの夜以来の事件を一切打明けて、力を借りようと思ったのである。私は家の前に立って高い窓を仰いだ。表道路に面した三階の彼の画室は電灯が点いている。私は開放しになっている玄関をぬけて、案内もなく勝手を知った三階へ上っていった。
 部屋には灯火が点いている計りで柏の姿は見えなかった。相変らず部屋は乱雑である。毀れかかった椅子の上に服が脱ぎすててあったり、穢れたシャツやカラーが寝台の下に投込んであったりするのはいつもの通りであるが、部屋の真中に磨上げた靴と、一輪ざしの花瓶がじか[#「じか」に傍点]においてあってカアネーションが挿してあり、そのわきにフライ鍋が投出してあるのが、何だか謎々のようである。私は斯うしたまじめ[#「まじめ」に傍点]な場合におりながらも微笑を禁じ得なかった。私は余程軽い気持になっていた。これで柏の顔を見て一時間もお饒舌をすれば先夜来の重荷もすっかり軽くなるだろうと思った。
 待てども、待てども柏は容易に帰って来ない。恐らく近所のカフェへ珈琲でも飲みにいっているのだろうと思ったけれども、気紛れな柏の事だから、カフェの帰りに何処へ飛んでいったか分らない。私は煙草を三本も四本も飲んでから、待ち倦《あぐ》んで戸外へ出た。
 グレー街の家へ帰って、塵挨を被ったような電灯のついている暗い廊下を通って、主人の居間の方へ行こうとすると、階段のところで、バッタリ雇人の婆さんと顔を合わせた。
「そっちへいってはいけませんよ。旦那様はお加減が不良いとかで、今しがたお寝みになったところですよ」
「では明朝お目に掛るとしよう」私は二つの階段を上って、三階の寝室へ入った。
 私は電灯を消すと、窓のブラインドを一ぱいにあけて、床へ入った。私は疲労《つか》れきっていた。それでいて頭脳は妙に冴返っていて、朝からの出来事が非常にハッキリと、そして素晴しい迅速《はやさ》で、次々と脳裡に映っていった。ああした事情で、親しく令嬢に会う機《おり》を喪ったけれども、彼女が一度でも自分如きに会ってやろうと思ってくれた事だけは確であったに違いない。それだけでも私は嬉しかった。
 たった一つ彼女の事を除いては、私には現世に何のひきつけるものはない。おこの沙汰ではあるが、私は奇《あや》しきまでに女の美しい姿に引つけられた。私はどうしても彼女を尋ね出そうと堅く決心した。
 夜中に一度目を覚した。戸外にはいつか風が出て裏庭の木立を騒がせていた。私は枕をかえして寝返りをした時、墓穴のように静まりかえった階下で、誰かが咳をするのをきいた。続いて床を歩く人の跫音がした。マッチを摺って枕元の時計を見ると午前一時である。私は床の上へ起上って耳を欹《そばだ》てた。私はそっと部屋の外へ出て、階段の上から下を覗いた。寸時|歇《や》んでいた跫音がまた聞えてきた。怪しい物音に釣込まれて、私は怖々ながら一番下の廊下まで下りた。跫音は確に老人の居間から起った。老人の居間の扉の上のガラス戸に室内の電灯が明るく映っていた。夜前の雇婆さんの話によると老人は身体の工合が悪くて臥ている筈である。それを斯うした遅い時間に、而も歩行の不自由な※[#「やまいだれ+発」、348−1]疾者《インバリット》が起きて歩いているとすれば啻事《ただごと》でない。
「盗賊かな、それとも医者かな」私は念の為に老人の居間を検めて見ようと思ったが、この家に雇われた時の約束を思出して躊躇した。それっきり、跫音も咳《しわぶき》もパッタリ歇んでしまったので、思返して部屋へ戻って、毛布の中へ潜込んでしまった。

        六

 翌日は朝から陰鬱な雨が降っている。雇婆さんが朝飯を食卓に乗せて私の寝室へ運んできた。
「旦那様はまだお加減が悪いので、食堂へはおでになりませんから、貴殿はここで召上って下さい」
「そんなに悪いのですか。昨夜は遅くまで起きていらっしったようですが、医者でも来ていたのですか」
「医者などは来る筈はありません。御主人は医者が酷くお嫌いなのです。昨日は日が暮れると、じきにお臥寝《やすみ》になってしまいましたよ」
 婆さんは私が夢でも見たのだろうというような顔付をして、卓子の上へ食事をおくと、さっさ[#「さっさ」に傍点]と部屋を出て去った。
 どう考えてもこの婆さんは単なる普通の雇人ではなかった。私はこの家へ来て以来、幾度となくこの老婦人と顔を合せたが、老婦人と主人のガスケル氏が話をしているのを一度だって見掛けた事はなかった。それでいて婆さんはいつも老主人の意志を私に伝えている。その日も食事を済してから主人の病気を見
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