グレー街のガスケル家に劣らない程、寂かな家だ。広い一〇一番のこの家は、現世にたった一つ取遺された建物のように深い寂寞のうちに沈んでいる。
 置時計の単調な針が進むにつれて、湿っぽい夜気が犇々と迫ってきた。
 五時十分にコトコトと階段を下りてくる靴音をきいた。私は救われたように椅子から立上ったが、靴音は書斎の前を通り過ぎてフット消えてしまった。何処かで扉の閉る音がした。
 夫《それ》から又、永い三十分が過ぎた。私は耐らなくなって、扉をあけて廊下へ出ると、恐る恐る正面の階段を上っていった。二階にも三階にも三つずつの部屋がある。私は一つ一つ扉を叩いて部屋を覗いて見たが、誰もいない。三階は殊に家具のない裸部屋であった。二階の表部屋だけに僅ながら暖炉の石炭が燃えている。急に逆《のぼ》せ上ったように顔が熱《ほて》ってきた。私はこま[#「こま」に傍点]鼠のように、階段を上ったり下りたりして家人を探そうとした。ある恐ろしい予感が私の心にかげをさしていた。私は最後に残された玄関わきの暗い客間へ入って見た。其処にも人のいる気配はなかったが、暖炉の前の長椅子に何か置いてある。窓外の薄明りに、黒い輪廓が見えた。思切って電灯のスイッチを捻った瞬間、思わず声を挙げて後へ飛退いた。そこには紺サージの服を着た男が、仰向に椅子に凭《もた》れたまま、ダラリと四肢《てあし》を踏延《ふみのば》している。私は少時、棒立になって立竦んでいたが、怖々ながら側へ寄って顔を覗込んだ。男は先夜サボイ劇場で、私の隣りにいた肥った中年の仏蘭西人で、後頭部を椅子の角へ凭せかけて口から涎を流している。私はこの有様を見て、何故この家の人達が姿を隠したかが朧気ながら首肯《うなず》かれるように思った。この仏蘭西人はこの家の歓迎されない不意の訪問客であったに違いない。先夜サボイ劇場で彼等仏蘭西人が密談していた事実に徴しても男はこの家の喜ばれない客である事は明白である。そして予め来訪が分っていたならば、五時半のお茶に私を招待する筈はなかった。部屋にはこれといって目星《めぼ》しい調度はない。卓子の上に灰皿と煙草があった。男の足下に新聞と、立消えになった巻煙草の呑さしが落ちている。その吸殻と卓上の煙草とは同一のマークがついている。吸殻は黄色く燻ぶっていた。煙草に魔睡薬が仕込んであるに違いない。私はそれを自分のポケットへ蔵《しま》った。新聞紙は男のもってきたもので、この家のものでない事はポケット大に折り畳んだ折目がついているので直ぐ判った。題字わきの余白に鉛筆で El 32[#「32」は縦中横]と記してあるのは、El は町名の頭字で、数字は家の番地である。即ち Elizabeth Street 三十二番に相違ないが、私の知っているだけでも倫敦にエリザベス街と名のつく町が二つある。倫教案内でも見れば、その他にも多くのエリザベス街があるかも知れぬ。この鉛筆の文字は新聞の取次店がそれぞれ配達前に覚書をしておくものである。私は後日何かの必要の場合を思って新聞紙もポケットに押込んだ。
 ストランド街の露路の殺人事件に就てこの男はなくてはならぬ重要な関係者である。卒直に私の心持をいえばこの男こそ最も有力な嫌疑者であらねばならぬ。そう思っている心のすぐ奥に、彼の令嬢のもっていた緋房が現場に落ちていた事を思浮べた。彼の令嬢を付狙っていて殺された男、その加害者? の肥満《ふと》った男、その男に魔睡薬を用いて逃去ったあの令嬢と老婦人、そう考えてくると私には薩張《さっぱ》り訳が分らなくなる。私は昏睡状態にある男が、今にも覚めはせぬかと気遣いながらも、短時間に出来るだけの事実を知って置こうと思った。実のことをいうと、私はその男に就いてより、令嬢の身の上を知る事に時間の大部分を費したのであるが、そういう方面に才能のない私の如き素人には、何等手懸りとなるらしいものを発見し得なかった。そのうちに私は誰もいない家に、それも初めてまぐれ込んできた不思議な家で、万一|斯《こ》うした事件にかかり合うような事があっては大変だと思った。私は誰にも見咎られずにそっと一〇一番の家を出た。往来には数人の男が通っていた計りであったが、気のせいか、向い側の葉の涸落ちた行路樹の陰を歩いていた男が自分を見張っていたように思われてならない。賑かなピカデレー街へ出た。それから裏通りを引返してボンド街へ出ると、先前の男は既う見えなかった。
 ボンド街のギャラリイでは絵画の展覧会をやっている。閉場後で鉄柵に広告ビラが立てかけてあった。私は酒場の角を曲って暗い横町へ入った。三人ほどの男が並んで酒場を出てきたが、そのうちの一人は私の姿を見て急に足をとめた。いよいよ本ものの探偵だなと私の胸は早鐘を衝くように鳴出した。私は暗い道を一目散に逃げた。そして首尾よく公園前
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