許に何者からか金が送られた事に就ても、格別奇異に感じていないらしかった。尤もこの男は世の中の出来事を何一つ不思議がった験《ためし》はなかった。たとえ私が伯爵の嗣子《よつぎ》になったといっても怪まないであろう。私は夜が更けてから家へ帰って、ぐっすり寝込んでしまった。
翌朝はいつになく早起きをしたので、窓に近い栗の木に黒鳥が笛のような声で囀っていた。扉の外にはまだ洗面の湯がきていなかったので、私は昨日の使い残りの水で顔を洗った。身仕度をして食堂へ下りていったが、食事の用意もしてなく、暖炉も焚いてなかった。その辺の様子を見ると、昨夜この家へ泊ったのは、どうも私ひとりらしい。
出帆時間の事を考えると、愚図愚図しておられないので、すぐ附近のカフェへいって軽い朝食を摂取《と》った。丁度六時半である。それからソーホー街へ出掛ければいい時間である。煙草に火を点けて外へ出た私は、不意にカクストン氏に呼止められた。
「飯田さん、大変お早いですね。何処へ」
「鳥渡、柏のとこまで……」立入った事を問われて、私は少し不愉快を感じたが、秘密の要件を持っているので、口から出任せを答えた。
「それは丁度いい、私も柏君を訪ねるところだから、御一緒にゆきましょう」
私は詰らない事をいったと思って悔んだが、今更どうする事も出来ず、時間を気にしながら、柏の家までついていった。私は先に立ったカクストン氏が階段に足をかけた時、
「煙草を買ってきますから」といい棄てて私は四辻まで後も見ずに走った。兎に角、ソーホー街と反対の方向に来ているので、非常に急がないと時間に後れてしまう。私はカクストン氏の思惑などを考慮《かんが》える暇がなかった。
自動車がソーホー街の八十八番へ着いた時は、予定の七時を余程過ぎていた。案内を乞わないうちに、玄関の扉をあけて、支那服を着た老人が、引擦り込むように、私を屋内へ導いた。
「早く、早く、裏口から出なさい。表に厭な奴が見張っている」といって、屏風のような大きな荷物を渡した。地下室から裏庭へ出て、煉瓦塀に沿った小径をぬけるとそこは裏通りになっていた。私は通りかかったタクシーに乗ってユーストン駅へ急いだ。
残念な事には、僅か数分の違いで七時半の汽車に乗り遅れてしまった。私は呆乎と待合室で次の列車を待った。間に合っても、間に合わなくても、兎に角港まで行って見ようと思ったのである。
其日の夕方、汽車は遠い見知らぬ港へ私を運んでくれた。私の乗る筈であった米国行のダイアナ号は、一時間前に港を出てしまった。大荷物を抱えた私は、積重なった古船材の端に腰を下して、白っぽく光っている水平線を視詰めていた。遥に見える一条の煙は、恐らく私を取遺していったダイアナ号であろう。
湿った潮風が、私の心を吹きぬけていった。私は米国行の機会を失ったのを悲しんでいるのではなかった。淋しい夕暮の港に佇《た》って、遠ざかってゆく汽船を見送る時に、誰もが味うような、核心のない侘しさを感じていたのである。その寂しさの奥に倫敦の紅い灯火が滲んでいた。そこにはモニカがいる。美しいモニカがいる。
私は影のように停車場へ戻っていった。
八
一晩中、汽車に揺られ通して、翌朝倫敦へ着くと、恐ろしい霧の日が私を待っていた。私の懐中にはつつましくすれば二年間は暮せるだけの金があったが、衣類其他を全部ダイアナ号に積込んでしまったので、着のみ着のままであった。
私は霧の中を彷徨い歩いて、ようやくグレー街のガスケル家に着いた。老人の落着先が判れば托された品を次の便船で送り届ける事が出来ると思ったからである。
黄色い霧に鎖された家の窓には売家と書いた赤い札が貼ってあった。凡てが遠い遠い昔の出来事のように思われた。昨日まで、私の暮していた大きな建物は、私とは何の交渉もないように冷かに立っている。
頭の上には光輝を失った太陽が、赤い提灯のように懸っていた。往来の人影も、車も、馬も、影絵のように動いていた。何も彼も嘘のようである。
私は公園の鉄柵に沿って、柏の宿を訪ねた。
「君、米国行は止めにしたのか。その荷物は何だい」ようやく起きた計りの柏は、眼を擦りながらいった。私は昨日以来の出来事を語って、その荷物は二三日中にソーホー街八十八番の家へ返しにゆく積りだといい添えた。
「絵画のようだね。開けて見ようじゃあないか」柏は私の返事も待たずに荷物を解きにかかった。最後の包紙を脱《と》った時、
「おや!」私と柏は同音に叫んだ。私共二人の眼を驚かせたのは、展覧会で盗難に遭った「歓の泉」であった。
「何だ、この絵を盗ませたのはガスケル老人なのか。随分変り者だと聞いていたが、詰らない人騒がせをしたものだね」柏は失われた絵が無事に戻ってきたので、小供のように喜んだ。
「君、これは僕のだよ
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