落着けると、今迄気付かなかった自動車の警笛、停車場の汽笛、その他様々な物音が相まじり合って、異様などよみ[#「どよみ」に傍点]をつくっている。気のせいか、何処かで管弦楽《オーケストラ》をやっているようだ。
私はフト思いついて、廊下伝いにサボイ劇場へ入った。私は服装を遠慮してわざと二階の後方の席を買った。芝居は至極あまいもので、些しも私の感興を唆《そそ》らなかった。平常の私なら、一幕が済むと、欠伸をして帰り仕度をするのであるが明日からは当分芝居も見られぬという境遇が、名残を惜しませるのか、寒い風の吹いている戸外へ出るのが大儀だったのか、私は夢心地に満堂の拍手の音を聞きながら、漫然と幕の上ったり、下りたりするのを眺めていた。
私の右手の空席を一つおいて、二人の男が頻りに話合っていたが、フト私と顔を合せると、
「今度の幕合は何分だね」と仏蘭西語で横柄に訊ねた。永らく英国に暮していた私は、見知らぬ他人から猥《みだ》りに言葉をかけられるのを快く思わなかった。殊《こと》に態度が気に入らない。私はムッとして相手の顔を視詰めた。男は肩をすぼめて[#「すぼめて」に傍点]、
「日本人だ。仏蘭西語じゃア通じない」と連を顧ていった。その男は黒の上衣のポケットに純白なハンケチを覗かせた二十七八の小柄な青年である。連は中年の岩丈な船員風の男で、長い口髭を弄《いじ》りながら、太い声で青年の言葉に合槌を打っていた。二人は以前余程親しい間柄で、久時《しばらく》別れていて、つい其日始めて出会ったらしかった。
若い方は頗る上調子で、
「多分そんな事と思ったよ。女が倫敦にいるとなりゃ、無論大将も近くに潜んでいる訳だ。俺は無駄骨を折って紐育《ニューヨーク》計り探していたが、有難い事だ。運が向いてきたんだ。厭でも応でも今度こそ結婚して貰わなくちゃアならない」
「……他にだって女はあるんだから……厭がる女の後を追うような野暮な真似はやめるがいいぜ。女は諦めて一方にかかろうじゃアないか、その方が間違いなさそうだ。へま[#「へま」に傍点]をやると両方とも失策《しくじ》ってしまう」連の男は宥めるようにいったが、彼の顔にはありありと不快の色が浮んでいた。
「余計な事は云わぬがいい。俺は一遍思込んだ事は飜えさないのだから、まア俺の細工を見ているがいいよ。一ヶ月後には伊太利《イタリー》の海岸から新婚旅行の絵ハガキでも
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