杯をもった手を何時までも宙に支えている。
「オイ、どうした。何を呆乎《ぼんやり》している」私は小声でいった。
「素敵だ。俺の探していた通りの顔なんだ」柏は呻くようにいった。
「冗談じゃアない。近所の人がじろじろ見ているじゃアないか、見っともないから止して呉れ」と私は慎《たしな》めたが、柏は耳にも入れず、
「まア、鳥渡見ろ、この卓子の五列目で、君の真背後なんだ。ロゼッチの『愛の杯』から抜出してきたような美人だ」と熱心にいった。
 如何に「愛の杯」から抜出したような美人であろうとも、私には真逆、無遠慮に振返って見るほどの興味はなかった。
 やがて食事が済んで、珈琲が運ばれた時、柏は突然私の肘を掴んで、
「『愛の杯』が席を立ったよ。僕は帰る、左様なら」といいながら気忙しく立上った。
「まだ、これから計画があるんだ。今から帰ってどうする」
「あの顔の印象が薄れないうちに、家へ飛んで帰って仕事にかかるのだ。徹夜だぞ」柏の言葉の終らないうちに、私は背後に軽い絹擦の音を聞いた。と見ると、裾に銀糸で渦巻模様を刺繍した真黒な琥珀《こはく》の夜会服を着た若い女が、卓子の間を縫って静に歩いてきた。丁度彼女が私の傍を通過ぎた時、軽い音を立てて床に落ちたものがあった。それは目の覚めるような緋房のついた小さな象牙の扇子であった。私は素早く手を延して拾い上げると、背後で、
「お嬢様、お扇子が……」という老婦人の声がした。先に立った女はツと足を停めて振返った。彼女は美しい口許に微笑を浮べながら、私の差出した扇子を受取って、
「有難う」と仏蘭西語でいった。老婦人は乳母か、家庭教師か、二人は軽く一|揖《ゆう》して廊下の外に姿を消してしまった。
 柏は私の引止めるのもきかず、間もなく、そそくさと帰っていった。
 柏に置去りを喰った私は勘定を支払って食堂を出た。食後の葉巻に火を点けて、高い廊下の窓から、火の海のような市街の光景を見下した。まだ時間は早かったし、それに飽気なく柏が帰ってしまったので、どうしても此儘、寂しい川岸の下宿へ帰る気になれなかった。目の下の大通りを数限りない自動車や、乗合自動車《バス》が右往左往に疾走ってゆく、両側に立並んだ、明るい飾窓《ショーウィンドウ》の前を、黒い人影が隙間もなく、ギッシリとかたまり[#「かたまり」に傍点]合って、宛然、黒い川を押流したように、動いている。じっと心を
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