送る事になるだろうよ。然し運ってやつは不思議なものさ。煙草屋の店先で君に会おうとは思掛けなかったよ。六ヶ月間も行方を晦《くら》ましてひとり占めをしようなんて、君も中々凄腕だよ」
「ひとり占めだなんて、そんな事があるものか、俺も気心の知れた相手が欲しいと思っていた矢先なんだ」
 二人は極めて小声で囁合っているが、私には不思議と聞取る事が出来た。彼等は一体何事に就て語合っているのか、要領を得ないが、兎に角この二人は只ものでないと思った。次の幕が開いたが、私は舞台より隣席の二人の挙動に興味を牽かれるようになった。若い方の男は紙片に何やら認めて、廊下に立っている案内人に手渡していた。それからの二人の言葉は一言半句も聞取る事は出来なかった。然しながら察するところ、二人はある婦人に対して異った主張を固守しているらしかった。而もその婦人というのは、どうであろう、柏の所謂《いわゆる》「愛の杯」の主人公で、例の扇子の持主ではないか。私の胸は異常な驚愕と好奇の念に奇《あや》しく跳った。私の眼は絶えず筋向うのボックスに注がれた。そこには思い做《な》しか、愁わしげな様子で、じっと舞台を見下している彼女の横顔が真紅のカーテンを背景に美しい線を描いていた。
 やがて最後の幕合がきた。私はその時まで忘れていた煙草を思出して廊下へ出た。私は人々の間を縫って、引つけられるように彼女のボックスの方へ歩いていった。品位《ひん》のいい容貌、優雅な物越し、附添いの老婦人の態度などから推して、彼女はどうしても身分のある家の令嬢に違いないと、私はひとり極めにしてしまった。それにしても私の隣席の仏蘭西人とどのような関係があるのであろう。私はそんな事を思いながら、廊下を歩いていたが、暫時して席へ戻ると、其処には既う先刻の仏蘭西人は見えなかった。私は出抜かれたような気持で、直ぐ筋向うのボックスに眼をやった時、思わず、
「オヤ」と叫んだ。ボックスは空である。つい今しがたまでいた彼女と老婦人の姿は、掻消すようになくなっていた。
 このようにして問題の人々は、いつ迄経っても姿を見せなかった。もともと芝居には最初から興味を感じていなかった私はそうなると一刻も辛抱しておられない。
 私は間もなく戸外へ出た。劇場地のストランドも、裏へ出ると、遉《さすが》に芝居の閉場《はね》る前は寂蓼を極めていた。薄霧のかかった空には、豆ランプの
前へ 次へ
全33ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
松本 泰 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング