になってきた。そして、約束の九時はおろか十二時になっても、ついにわたしを訪ねる機会を持たなかった青年の焦る気持ちを察するだけの余裕を持ってきた。
 わたしは終夜、青年の哀訴するような瞳《ひとみ》に呼び覚まされながら、浅い夢に彼の姿を見つづけた。

 目を覚ますと、朝陽《あさひ》がいっぱいに枕もとの壁に当たっていた。
 階下のざわめかしい物音に、予感とでもいうのかわたしは不思議な胸騒ぎを覚えながら、着替えもそこそこに慌ただしく階段を下りていった。
 殺人事件なのだ。
 ホテルからつい目と鼻の先の教会の脇《わき》の空地に、日本人の青年が胸を刺されて死んでいたのを明け方通りかかった牛乳屋が発見したのである。第一に現場へ駆けつけたというホテルの支配人は、
「この辺では、ついぞ見かけたことのない男でしたよ。鼠色の背広を着て、紺に白い水玉模様のついたネクタイをしていました」
 と語った。
 その言葉はいちいちわたしの記憶に符合している。死骸《しがい》はすでに警察署へ運ばれたと聞いて、わたしはすぐ並山副領事へ電話をかけた。
 それから三十分後に並山は自動車を飛ばしてきて、わたしを警察へ連れていってく
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