と思いますが……」坂口は口籠りながら、しどろもどろの返事をしたが、
「すぐ警察へお届けになったら如何です。私に出来る事なら、何でも致しますから、どうぞ御遠慮なく申つけて下さい」と熱心にいった。
 エリスは林の不在をきいて、失望の色を浮べながら帰りかけたが、
「あの娘には可哀そうだけれ共、兎に角無事でいるに違いないから、騒がずにいて下さい。警察へなど、訴えてはいけません。吃度今晩中には帰ってきます。そして林さんがお帰宅になったら、直ぐ家へいらしって下さるようにお願い致します。それから貴郎は明日の朝早く家へいらして下さい」といって力なく石段を下りていった。然しながら彼女の悲しげな顔には、何処か強い決心の表情が現われていた。
 水曜日はやがて日の暮れに近かった。昨夜以来伯父が帰って来ないという事に就ては、決して心配は要らぬという伯父自身の置手紙で、さまで気にする要はないのであるが、ビアトレスに就ては胸が痛くなる程気遣いであった。坂口はもう先刻のように椅子にねそべって雑誌を見ている事は出来なかった。彼は閉切った部屋の中を往ったり来たりしていたが、耐えられなくなって家を出た。
 彼は何処をどう歩いたか、知らぬ間にもとの町へ出て了った。日頃行きつけのベルジアン・カフェで食事を済すと、またコックス家を訪ずれた。
 窓という窓は真暗で、只ホールの上の電燈だけが、扉の上の硝子板に明るく映っている。家中は不在であった。
「奥様は先程一寸お帰りになりましたが、また直ぐ外出なさいました。お嬢様はお嬢様で、私が買物に行っている間に、置手紙をして何処かへお出掛になって、まだお戻りになりませんのですよ」女中は不安らしくオドオドした様子で、ビアトレスの書残した紙片《かみ》を坂口に見せた。
 彼はホールの電燈の下で、鉛筆の走り書を読んだ。すると突然、ホールの蔭で物音がした。
 二人は吃驚して振返った。電話機の横手に吊した、籠の中で、鸚鵡が羽ばたきをしたのである。
「まア、どうしたのでしょう。ゴタゴタしていたものだから、私はすっかり鸚鵡の始末を忘れていたよ」女中は独言をいいながら、帽子掛のついた鏡の前に置いてある鳥籠の覆布《おおい》を持ってきた。
「本統にお嬢様は何処へ行きなすったのだろう、手紙では奥様と御一緒のようでしたが……」と女中がいいかけると、籠の鸚鵡が不意に大声を上げた。
「待て待て、鸚鵡が何か云っているじゃアないか」と坂口は低い声で云った。
 二人は霎時《しばらく》の間、片唾《かたず》をのんで鸚鵡の言葉を聞いた。
「そうだ、ビアトレスさんに電話がかかった時は、此広い家の中に居合したものはお前丈だ」坂口はそう思って、じっと鳥籠を視守った。
 彼は電話の鈴を鳴したり、電話を聞く真似をしたりして苦心の結果、二度程聞いた同じ言葉から、Pという頭文字のついた二|音符《シラブル》の旅館の名を捜出そうと思った。彼は直に電話帳を繰ってPの行を読んでいったが急に顔を輝かして、
「パーク旅館! これに違いない。H公園なら造作ない、私はこれから行ってくる」と叫んだ。
 坂口はそれから三十分後に、旅館の前の横町へ姿を現わした。
 と見ると旅館から出てきた二人の男女が周章《あわただ》しく、出口に待っている自動車の中へ入っていった。何分にも、道路を隔てているので確《しか》とは判らないが、どうやら中折帽を冠っている男は、旅行に行っている筈の伯父であり若い女はビアトレスであるらしく思われた。
 坂口は一直線に往来を横切って、自動車へ馳寄ろうとする瞬間、烈しい爆音をたてて車は動きだした。
「待って下さい私です」坂口は大声に叫んで後を追かけたが、二人は慥《たしか》に後を振向きながらも、そのまま一散に疾走し去った。
 坂口は公園の角まで馳って、やっと空いたタクシーを見つける事が出来た。先へ行った車は、とっくに姿を失って了ったが、坂口はそれに乗ってクロムウェル街に向った。土地馴れない運転手は、大迂廻《おおまわり》をしてようやくコックス家の前へ辿りつくと、坂口はイライラしながら車を飛下りて石段を馳上るなり、烈しく扉を叩いた。
 玄関はすぐ開かれた。彼は呆気にとられている女中を押除けるようにして、居間へ躍込むと、ビアトレスがたった一人、真青な顔をしてオドオドと戸口を視詰めていた。
「ああよかった、貴女は無事にお帰宅になっていましたね」坂口は呼吸《いき》を喘《はず》ませながらいった。
 ビアトレスは坂口の顔を見ると、ホッと安堵の溜息を洩らした。
「自動車が家の前へ止ったから、誰が来たのかと心配していたのよ。貴郎で本統によかったわ。私は悪漢《わるもの》のためにパーク旅館の五階に監禁されていたのです。それを林小父さんが救い出して下さいましたの」ビアトレスは思出すさえ恐ろしそうに身を慄わせながら、パーク旅館の給仕と称する男から電話がかかった事から、見知らぬ男のために手足を縛られ、その上、猿轡まではめられて、五階の一室に監禁されたまでの一|什《ぶ》始終を語った。
「それで私はどうなる事かと思ってじっと目を閉じているうちに、外はすっかり夜になり、段々お腹は空《へ》ってくるし。たまらなくなったのです。どうかして手首の自由を得ようと頻りに※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いて居りますと、誰かが鍵をガチャガチャやって部屋へ入って来ました。それが林小父さんだったのです。真実《ほんと》に私はどんなに嬉しかったでしょう。小父さんは手早く縄を解いて私を戸外へ連出して下さいました。私共が表へ出ると、誰かが追かけて来るようでしたが、幸い旅館の前にタクシーが止って居りましたので、自動車を急がせてから、少し前に家に戻ったところです」
 坂口は胸を躍らせながらビアトレスの話を聞き終ると、やがて気が附いたように、
「伯父は何処へ行きました」と四辺を見廻しながらいった。
「私達は家へ帰りましたが、女中の話で母さんが心配して外出なすったきり、未だ帰っていらっしゃらない事を知りました。何処へいらしったのかと思って、先ず何という事なしに、二階のお部屋へ行って見ますと、脱ぎ捨てた着物の間から例の不思議な手紙を見付たのです。場合が場合だったので、思切って開けて読んだのです。それは或男から来た強迫状で、今夜の九時に五百|磅《ポンド》の金を持ってパラメントヒルへ来なければ、貴女の秘密を公にする計りでなく、娘の生命を奪ってしまうというような事が記してありました。私は喫驚して林小父さんにそれを見せますと、小父さんは顔色を変えて、母さんを救う為にたった今、家をお出になったのです」
 坂口はそれを聞くと突如、手に持っていた帽子を被って戸口へ歩みかけた。
「今から直ぐ私も行ってきます。伯父に万一の事でもあると大変です」
「ああ、貴郎がいらっしゃれば、母さんも、小父さんも、どんなにお気が強いでしょう。九時といえば既《も》う十分しか間がありません。すぐいらしって下さい」
 坂口はビアトレスの言葉を後に聞流して玄関を出た。自動車は全速力でハムステッドへ向った。
 坂口は暗い車の中で、何を考える余裕もなく、行先計り急いでいた。そのうち彼の乗った自動車は地下鉄道の停車場前を過ぎて、公園の入口に停った。坂口はそこでタクシーを帰して、木立の間についている小径へ入っていった。
 時計は九時を十五分程過ぎている。昼間の天気とは違って、空はすっかり曇っていた。湿気《しめりけ》を持った夜風がしっとりと公園に立|罩《こ》めていた。
 坂口は爪先上りの小径を上って、目指すパラメントヒルの土手へ出ようとした時、たちまち身辺に凄まじい銃声が起った。それと同時にバタバタと入交った靴音が聞えた。坂口は思わず芝草の上に立|竦《すく》んだが、靴音を忍ばせて物音の起った方向へ進寄った。
 靴音はいつの間にか消えて了った。
 闇の中を透すと、つい十数間先を、密《ひそか》に歩いて行く人影を見つけた。それより少し向うに二三の立木があった。男は中折帽子を冠って、右手に杖を持っていた。彼は立木の蔭でフト足を停めた。
 見ると男の足下に長々と真黒な人影が横わっている。中折帽子を冠った男は、紛れもない伯父の姿であった。

        五

 坂口は霎時の間、闇の中に棒立になっていたが、次の瞬間に伯父は、北に向って走っている小径を、周章《あわただ》しく歩去った。坂口はフト我に返ると、その辺にまごまごしているのは危険であると感じてきた。共同椅子《ベンチ》の前に倒れている人間を見究めないのは、如何にも残念であるが、それは婦人でない事だけは夜目にも慥かに判っていた。
「何だって伯父はこんな思切った事をやったのであろうか。エリスさんはどうしたろう。先刻人の馳けてゆく靴音が聞えたが、あの時の音がエリスさんであったかも知れない」
 坂口は丘を馳下りるなり、道路のない雑木林の間を抜けて、一直線に公園の外へ出ようとした。一刻も早く人通りのある往来へ出て了おうと焦りながら、針金を亙《わた》した低い柵を越えて、ようやく池の傍《わき》へ出た。
 と見ると、十数間先の四角になった小径を横切って、バラバラと馳けて行った女があった。姿はたちまち見えなくなったが、縁のある大きな帽子を被った女であった。
 坂口は地下鉄道の停車場傍まで来ると、其前から市街自動車に乗って、ベースウオーター街の家へ帰った。
 伯父は未だ戻っていなかった。それで直にコックス家を訪ねた。女中はとうに、自分の部屋へ引退って了って扉を開けてくれたのはビアトレスであった。
 居間ではエリスが手巾《ハンカチ》を眼にあてて、深い椅子に腰を下ろしたまま、じっと首垂《うなだ》れていた。ビアトレスと坂口は言葉もなく、その傍に佇んだ。
 ビアトレスは劬《いたわ》るように母親の肩を撫でていた。
「本統に私はどうしたらいいか、少しも分らない。……何も彼もみんな私が悪かったのですよ」霎時してエリスは絶入るような低い声で云った。
「ビアトレスさんがパーク旅館に監禁された事といい、昨晩旅行に出掛けた筈の伯父が、貴女の後を追ってパラメントヒルへ出掛けた事といい、私には何が何だか薩張《さっぱ》り了解《わか》りません」と坂口がいった。
「昨夜から旅行しているのですって? 林さんは何処に居ります」エリスは泣膨らした眼を上げて訊ねた。
「彼処《あすこ》から私は直ぐ、家へ戻って見ましたが、伯父はまだ帰宅して居りませんでした」
「では貴郎もあの事を御存知ですか」エリスは怖ろし気に手巾《ハンカチ》で顔を覆った。
「エエ、私は伯父が死骸の傍に立っているのを見ました。……然し殺された男は一体何者でしょう。無論パーク旅館で貴女を監禁した男と思いますが……」と坂口は嗄《しわが》れたような声でいった。
 ビアトレスは手を挙げて坂口を制しながら、「そんな事はどうでもいいわ。……それより林小父さんはどうしたでしょう。何故早く帰っていらっしゃらないでしょう」と穏かにいった。
 エリスは何事をか云おうとしたが、悲しげな様子をして口を噤《つぐ》んでしまった。
 たちまち、玄関の呼鈴が鳴った。三人は思わず顔を見合せて、誰一人席を立つものはなかった。第二の呼鈴が続いて起った時、坂口は思切ったように立上って玄関へ出ていった。
 扉を開けると、平服を着た二人の男がヌッと家の中へ入ってきた。彼等は無遠慮に自ら背後の扉を閉めた。
「貴郎はベースウオーター街二十番地に住んで居らるる林という方の甥御さんで、坂口さんと仰有る方ですね」一人の男が口を切った。坂口は黙って点首《うなず》いた。
 その間に、もう一人の男は頻りに居間の扉を叩いた。すると部屋の中からスックリとビアトレスが現われた。
「貴郎方は何者です。断りもなく他人の家へ入って来て失礼ではありませんか」彼女は厳しい言葉で慎《たしな》めるようにいった。
 二人の男は急いで冠っていた帽子を脱ると、叮嚀《ていねい》な言葉で、
「夜分に飛んだお騒がせを致しまして誠に申訳ありません。仰有る通り、少々失礼には違いありませんが、職掌柄でございますので、どうぞ御寛大
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