にお許し下さいまし」と先に立った男がいった。彼は更に言葉を続けた。
「貴女が御当家のお嬢様でいらっしゃいますか。実は一時間半程前に、パラメントヒルで殺人がありましたのです。それに就きましてここにいる坂口という青年を取調べる必要があったものですから、所々を訪ねた結果、こちらへ上った訳なのでございます」
「坂口さんは私共のお友達で、そのような恐ろしい殺人などに、関係のある方ではありません」
「成程左様かも知れません。坂口さんがお宅の友達である以上は、林さんと御親交のある事は無論の事ですな。どの点までのお知合いであるか、一応奥様にお目に掛ってお話を伺いたいと存じますが、如何でしょう」男は如才なくいった。
「母は加減が悪いので、今夜はお会わせする事は出来ません」ビアトレスは不興気に云った。
「いつ頃からお加減が悪いのですか。御様子を見ますと、お取込があるように存じますが」
ビアトレスはそれには答えず、相手の顔を視返した。
「イヤ、どうも飛んだ失礼を致しました」男は坂口を振向いて、
「君、御苦労だが警察署まで一緒に来てくれ給え。君の伯父さんが現場から引致《いんち》されたものだからね、つい君にも余波《とばしり》がきた訳さ」と聞えよがしに大声でいった。
「まア、林小父さんが捕まったのですか?」とビアトレスは思わず叫んだ。
「その通りです。それに就てお宅とは日頃の御関係もありますから、改めて相当の手続を履んでお伺いする事に致しましょう。甚だお気毒ですが、明日は一歩も外出なさらないように予《あらかじ》め申置いておきます」
二人の刑事は意味有気な薄笑いを浮べながら、悪叮嚀に挨拶をして、坂口を引立てていった。
H警察署の薄ら寒い一室で、坂口は係官の取調べを受けた。パラメントヒルで、何者にか射殺されたのは、立派な服装をした五十四五の男であった。
彼は最初何事を訊ねられても頑強に知らぬ一点張りで通して見た。然し、それは却って伯父の嫌疑を深くして彼を死地に陥れるものである事を知った。坂口は伯父を全然、無罪とは信じていなかったが、尚そこに二分の疑念が残っていた。それで仕舞には考直して彼の知っているだけを語った。
そして彼はパラメントヒルで、死骸の傍に立っていた伯父を見たという件は、寧ろ伯父の加害者でないという事実を立証するものであると力説した。即ち仮に伯父が拳銃《ピストル》を発射《うっ》たものとすれば、被害者が倒れると共にそのまま遁走するのが自然である。然るにステッキをついて、悠々と死骸の傍に立っていたという事実は、他の何者かが拳銃を発射した後、伯父はその音を聞付けて、現場に至ったものであるという事を明白に語るものであるといった。
然しながら彼の切角の言証も、伯父が射殺したものでないという積極的な反証の出ない限り、何の効果も来す事は出来なかった。
係官は冷かに笑って取合わなかった。夜は更けてから、彼は一|先《ま》ず放還された。
六
灰を被ったような古いクロムウェル街の家並は、荒廃《あれ》きって、且つ蜿々《えんえん》と長く続いている。甃石《しきいし》の亀裂《さけ》ている個所もあり、玄関へ上る石段の磨滅《すりへ》っている家もあったが、何処の家にも前世紀の厳めしいポーチと、昔の記憶を塗込めた太い円柱《まるばしら》があった。岩丈な樫の扉は深緑色褐色と、幾度か塗替えられたが、扉の中央に取付けられた鋳物の獅子の首と、その下に垂下った撞金《たたきかね》は、昔も今も変らず云合したように手ずれがして黒く光っていた。
その一本通りの中程に、コックス家があった。坂口とビアトレスは往来に面した階下の居間で心配そうに顔を突合わせていた。
戸外には初夏の穏やかな太陽が街を明るくしている。それだけ閉切った部屋は暗く陰気であった。エリスは坂口がコックス家へ来る前から、H警察署へ召喚されてまだ帰って来なかった。
「殺された男というのは、貴女をパーク旅館に監禁した怪しい人間と同じです。一体その男とお母さんとはどういうお知合なのでしょう。そして私の伯父もその男を知っているのでしょうか」しばらく沈黙の後で坂口がいった。
「私もよくは存じませんけれど、母さんの昔の友達であったという事です。何でも母さんを酷い目に合わせておいて、外国へ遁《に》げてしまったとかいう事を聞きました」ビアトレスは母の痛ましい古傷に触れるのを耐えられないようにいった。
「私も恐らくそのような事ではないかと思っていたのです。その事を伯父は知っているでしょうか」
「小父さんがチャタムにいらしったのは、その前後であるという事ですから、薄々は御存知かも知れませんが……小父さんとその男が顔を合せた事はなかったと母さんが仰有っていました」
「でも伯父はどうして貴女がパーク旅館に監禁されていた事を知ったのでしょう。伯父がいつになく旅行するといって前の晩から家へ帰らなかったのも不思議です」
二人は言葉を止めて、各自別々の事を慮《かんが》え初めた。
坂口は伯父の日頃の気質から、彼が恐ろしい殺人罪を犯したとはどうしても信じられなかった。永く外国の生活をしている程の伯父であるから、或は拳銃《ピストル》の一挺位は所持《も》っていたかも知れないが、それにしてもついぞ伯父の拳銃を見た事はない。……けれども又一方に、伯父が今日まで独身生活を続けているその理由を段々解して来たように思った。……伯父はエリスを愛している。世界中の誰よりもエリスを愛している。愛するものの為ならば、人間はどのような犠牲をも払う事が出来る……彼はそう思って慄然とした。ビアトレスはブラウスの襟に顎を埋めて、呆然《ぼんやり》と、足下の床に視線を落していた。彼女は別の世界に引込まれて行くような、頼りない心持になっていた。何かなしに、警察へいったきり母親はもう帰って来ないように考えられてならなかった。彼女は慌ててそれを打消そうと努めたが、払っても、払っても、次から次に浮んでくる不吉な幻影が一層彼女の心を重くした。そして今朝母親が家を出て行った時の悲しげな眼眸《まなざし》が、いつまでも目先にチラついているのであった。
ビアトレスは母親が林に対して抱いている心持を知っていた。そして母親が殺された其男を呪い、醜い記憶を持った間柄をどんなに秘《かく》していたかを知っていた。
坂口とビアトレスはフト目を見合せたが、二人は窓の外に眼を背《そら》してしまった。
クッキリと黄色い光線を浴《あ》びている甃石の上は、日蔭よりも淋しかった。青空も、往来も、向う側の家々も、黒眼鏡を通して見るように明瞭《はっきり》として、荒廃《さび》れて見えた。
間もなくエリスが死人のような顔色をして入って来た。
「ああ、既《も》う駄目です。すべてが終りです」エリスは力なく椅子に着いてさめざめと泣いた。
「小母さん、伯父はどうなりました」坂口は急込《せきこ》んで訊ねた。
「林さんにお目に掛る事は許されませんでしたが、林さんはすっかり自白して罪を承認したいという事です」エリスは泣※[#「口+厄」、第4水準2−3−72]《なきじゃく》りをしながらいった。
「真実ですか、……然し私にはどうしても信じられません、……それで兇器はどうしました」
「拳銃は捜査の結果、現場から余り離れていない雑木林の中で発見したという事です。そしてそれは殺された男の所有品である事が判ったのです」
「被害者の拳銃で伯父が相手を射撃するというのは不思議ではありませんか」坂口は元気づいて叫んだ。
「それが却っていけないのです。林さんは旅行に出掛けたと見せて、実はパーク旅館のその男の隣室に宿《とま》っていたのです。それで娘を助ける事が出来、拳銃も持出す事が出来たものと、警察では思っているのです」
「然しその拳銃がどうして殺された男の所有品である事が判明《わか》ったでしょう」
「パーク旅館の滞在人であるという事は、昨夜の中に所持品で知れたのです。それで旅館の部屋を捜査《さが》しているうちに、その男がスマトラにいた頃、官憲の拳銃購入許可書と銃器店の出した受取書を発見したのです。その受取書に拳銃の番号が記してあったという事です」エリスは絶望したように首を左右に振った。
「そうですか、伯父自ら罪を承認したといえば、どうしても致し方ありません」坂口はその儘|俯向《うつむ》いてしまったが霎時すると顔を上げて、
「どうか有の儘にお話して下さい。小母さんはどの位永くあの腰掛《ベンチ》にいました。そしてその男とどんな談話《はなし》をなさいました?」と熱心にいった。
エリスは稍《やや》当惑気に坂口の顔を視詰めていたが、やがて意を定めたようにいった。
「十分間程でした。男は私に五百磅を強請しました。私はそのお金を用意して持って居りました。無論金は渡してやる覚悟でありましたけれども、将来またこうした強請に合うのを虞《おそ》れましたので、その男のいう通り南米へ行って必ず二度と英国へ足踏みしないという誓を立てれば、お金をやっても可いといったのです」
「それからどうしました」
「すると彼がいうには『自分には敵があって、絶えず附|纏《まと》われているので、英国にいては一刻も枕を高くしてはおられないから、便船のあり次第南米へ渡って、一生涯英国には帰らない』と答えました」
「その男を付狙っている敵があると、仰有るのですか」
「そうです。彼はこういいました。すると、たちまち、拳銃の音がして、アッと悲鳴をあげながら彼は腰掛からのめり落ちました。私は不意の出来事に気も顛倒して逃去ったのです」
「待って下さい。その時彼は腰掛のどっち側に腰をかけていました?」
「私は広場に向って左端にいましたから、彼は右側です。そうです、彼は両手で右の脇腹を抱えながら前へ仆《たお》れたのです」
それを聞くと、坂口は急に椅子から躍上って、「有難い、伯父さんは無罪だ」と叫んだ。
エリスの言葉によればその男は彼女の右側におって、右脇腹に弾丸《たま》を受けている。然るに彼が銃声に続いて死骸を認めた時、伯父はその傍に立っていた。坂口は前夜公園の小径を入って径の二股に別れたところから右手の路をとった。左手の路は曲線《カーブ》を描いて大迂回をしながら、腰掛の傍にいて、更に北に向って走っているのであった。
現場から右手に十間程|距《へだ》てて、真黒な影をつくっているこんもりとした雑木林があった。坂口が拳銃の音をきいた瞬間と、死骸を認めたまでの時間からいっても、右手の雑木林に潜んでいた伯父が、死骸の傍に馳つけるという暇はなし、且つ仮りに十間の距離を、殆んど一瞬のうちに走り得たとしても、坂口の立っていたところから見通しになっていた雑木林と腰掛の間を、坂口の目に触れずに通り終せる事は出来ぬ筈である。して見れば伯父は小径の二股になったところから、左手の径を通っていったものでなければならぬ。男がエリスの右側にいて、右脇を射撃《うた》れたのであれば、何者かが右手の雑木林に潜んでいて発砲したものに違いない。
彼は呆気にとられているエリスとビアトレスを後に残して、忙しく表へ飛出した。
坂口はパラメントヒルへ急いだ。そして前夜と同じ道路を通って、兇行のあった場所へ出た。彼は腰掛の前までいって後戻りをすると、径の二股になったところから左手の路をいって見た。次に右手の雑木林へ入込んで、注意深く地上の足跡を検《しら》べたが、晴天続きのために、地面はすっかり乾き固っていた。最初彼は足下の草が踏にじられていたり、灌木の枝や葉が折れちぎれているのを発見して、眼を輝したが、すぐ後からそれは警官や探偵が兇器を捜査する為に入込んだものと知った。
雑木林を出ると、彼は更に腰掛の附近を思うままに調べて見ようと思ったが、最前からその近くにうろうろしている平服の刑事が、怪訝らしく彼の挙動を見守っていたので、足早に其処を去った。
池の縁を通りかかったとき、前夜道路を横切っていった女の後姿が、チラと脳裡に浮んだが、公園を出ると既《も》うすっかり忘れていた。彼は市街《まち》へ帰った。然しどういう気持か、ひきつ
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
松本 泰 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング