けれども」ビアトレスは冗談らしくそう云ったが、急に不安らしい顔付をして、何やら考込んで了った。
「小母さんはお不在ですか。そして昨夜の女はどうしました」
「ああ、あの方はエドワード夫人というのですって、もうすっかり元気を快復して、今朝は私達と一緒に朝御飯を喰べました。今しがたまで、その辺に見えましたが、大方三階へいったのかも知れません。じき下りて来るでしょう」ビアトレスがいっているところへ、噂のエドワード夫人が血色の勝れない顔をして入ってきた。
「昨夜は本統に、御世話をかけて済みませんでした。お蔭様で助かりました」
「お礼には及びません。でも御元気になられて結構です」と坂口がいった。
エドワード夫人はビアトレスに向っていった。
「お嬢様、誠に有難うございました。宿のものが心配しているといけないから、一旦|自家《うち》へ帰りまして、改めてお礼に伺います。お母様がお帰宅になったら、どうぞ宜しく申上げて下さい」
「そうですか、では気をつけてお帰りなさいね。お宅はモルトン町だそうですから、そんな遠い所から、わざわざ出直していらっしゃらないでもよろしゅうございますわ。お宅へ帰って悠《ゆっく》りお休息《やすみ》なさい」ビアトレスは劬《いたわ》るようにいった。
エドワード夫人は間もなく家を出ていった。
書斎のベランダでは、鸚鵡が喧ましく女中の名前を呼んでいる。二人は別々の事を考えながら、霎時《しばらく》黙って椅子にかけていた。
「林小父さんは此頃どうしていらしって?」編物を膝へ置いて、硝子《ガラス》戸越しにぼんやりと戸外を眺めていたビアトレスは、突然声をかけた。
「伯父ですか、……別に平常と変った事はないと思いますが、……」
「そうなの、家の母さんは此五六日ほんとに様子が訝《おか》しいのよ。貴郎はそれに気がお付きになって?」
「そう仰有《おっしゃ》れば、昨夜も何だかソワソワして、淋しそうにしていらしったと思います」
「エエ、本統にそうなの、私何だか心配で仕方がないのよ。そして不思議な事には、此節しげしげと、何処からか手紙が参りますの、その度に母さんは悲しそうに溜息をしていらっしゃるわ」
「母さんは其事に就ては、何事も貴女に仰有いませんか」坂口は怪訝《いぶかし》そうに相手の顔を視守った。
「エエ、私は心配になって、度々その訳をお訊きするのですけれども、その事に就ては何も仰有らず、手紙が来ることさえ、私に隠匿《かく》そうとなすっていらっしゃるのよ。何か凶《わる》い事でも起ったのではないでしょうか」
ビアトレスの言葉を聞いて、坂口は前夜伯父の書残していった不思議な置手紙を思出した。彼はその事が危く口に出かかったが、気がついて口を噤《つぐ》んでしまった。
「ビアトレスさん、余り心配なさらないがいいです。伯父さんもいることですから、小母さんの為には、どんな事でもして吃度《きっと》小母さんの御心配を取除くに違いありません。然し一体それはどんな手紙でしょう」
坂口は霎時していった。
「今迄私の見た事のない筆蹟で、それがみんな、同じ人から来るらしいのよ。母さんは女中にさえ、手紙の上書を見られるのを厭がっていらっしゃるのです。今朝もエドワード夫人が手紙を受取って、母さんのところへ持っていったら、平常の母さんに似合わず、引奪《ひったく》るようにしてそれを持って、二階へ引込んでおしまいなすったのです」
「それは林伯父さんの手紙ではありませんか」
「真逆《まさか》そんな事はないわ。無論、男の筆蹟には違いありませんが、小父さんとは違ってよ」
「そんなに度々何処から手紙が来るのか知ら……お待ちなさい、私も考案《かんがえ》がある」
「どんな事?」
「小母さんの後を尾行《つ》ければ、きっと手紙の差出人が判明《わか》ると思います」
「貴郎、そんな事をして若しそれが、万一母さんの為に悪い事だったらどうしましょう」ビアトレスは周章《あわ》てて押止めた。
「そんな事は必ずあるまいと思いますが……それでは伯父の力を借ります」
「どうぞ左様《そう》して下さい。小父さんなら必《き》っと何とかして下さると思います。母さんは本統にお可哀そうなのです」
ビアトレスは一年一年と年をとってゆく母の淋しい様子を思浮べて、大きな眼に涙を浮べた。坂口も何をいう術もなく黙込んで、兎《と》もすれば誘込まれそうな泪を、じっと耐《こら》えていた。そして何にもない窓の上部に目をやっていたが、それから霎時して故意《わざ》と元気よく別を告げて、ビアトレスの家を出た。
三
ビアトレスは坂口を玄関まで送って、再び居間へ戻ると、突然けたたましくホールの電話が鳴出した。生憎《あいにく》女中が買物に出た不在であったから、ビアトレスが電話口に出た。
先方の男は叮寧《ていねい》な言葉でいった。
「私はコックス夫人から御伝言を頼まれたものですが、お嬢様に鳥渡《ちょっと》電話口まで出て頂きたいのです」
「私が娘のビアトレスです。貴郎は何誰《どなた》?」
「ハイ、私はパーク旅館《ホテル》の給仕ですが、コックス夫人と林様がこちらで食事をなさるから、貴方様も直ぐいらっしゃるようにと申す事でございます」
「何ですって? 母さんと林さんが何処に居ると仰有《おっしゃ》るのですか」
「こちらは旅館にお滞在《とまり》になっている日本の紳士で近藤様と仰有る方とお三人でございます」
「何旅館とか云いましたね。……電話が遠いのでよく聞えないのです……エエ? パーク旅館?……ああ判りました、パーク旅館ですね。……はアそうですか、百二十八号室は五階ですか……では直ぐ参ります」ビアトレスは電話をきって、イソイソと二階の寝室へ馳上った。
それから数分後に寝室を出てきたビアトレスは、菫色の繻子《サテン》の、袖口や裾に、黒をあしらった衣服を着て、見違える程美しくなっていた。彼女は浮々した様子で階段を馳下りると、女中を捜すために地下室へ行ったが、まだ使にいって帰って来なかった。
ビアトレスは舌打ちをしながら、壁に掛っている時計を見上げたが、いつ戻って来るか判らない女中を、的も無く待っていても仕方がないと思って、置手紙をして出掛ける事にした。彼女は紙片の端に、母から電話がかかったので食事に行くから、其積りでいてくれ、と鉛筆で走書をすると、それを台所の卓子の上へ乗せて置いて急いで家を出た。
ビアトレスは町の角からタクシーに乗って、H公園に近いパーク旅館に急がせた。
軈《やが》て旅館へ着いた。彼女は自動車を下りて賃金を払うと、電話で教えられた通り、入口の左側にある昇降機《リフト》室へ入った。
ビアトレスが五階へ運ばれて、廊下へ出た時には、四辺に人影がなかった。広い旅館の中はしん[#「しん」に傍点]として何の物音も聞えない。彼女は部屋の扉の上に記された番号を数えながら、足を運んでゆくと、純白なリンネルの上衣を着た給仕が前方からやってきた。
「百二十八号室をお尋ねでいらっしゃいますか」男は小腰を屈めながらいった。
「左様《そう》です。そこへ連れて行って下さい」
「ハイ、畏《かしこま》りました。どうぞ此方へいらしって下さい」男は先に立って、とある部屋の前まで来ると、
「ここでございます」といって一足後に退った。
ビアトレスは軽く会釈をして、手をかけた把手《ハンドル》を廻しながら、扉を開けた瞬間、背後《うしろ》に立っていた給仕が突然《いきなり》躍り蒐《かか》った。
「呀《あっ》!」と云う間もなく、ビアトレスは両腕を捩上げられて了った。
云うまでもなく部屋には誰一人いない。恐ろし気な顔をした給仕が、ドキドキする細長いナイフを、ビアトレスの鼻先に突つけている。彼女は努めて平静を装って、
「お前はこんな手荒な事をしてどうしようというの? 私の生命を奪《と》ろうというの?」と叫んだが、余りの怖ろしさにワナワナと体躯を慄わせていた。
相手はビアトレスの手首を後手に括《くく》って了うと、薄気味悪く微笑いながらいった。
「静かにさえしていれば、そんな虞《おそれ》はない。まア少しの間、その椅子にでも腰をかけて気を落着けるが可い」
「貴郎は一体何者です。私の持っているものが欲しいなら、指輪でも、首飾りでも、皆あげますから、私を外へ出して下さい」とビアトレスがいうと、男は落着払って答えた。
「今に当方の用事が済んだら出してあげるよ。ここまで来て了えば、いくら騒いでも到底|遁《のが》れる事は出来ないのだから、その積りで諦めるが可い。別に心配する事はない。晩の十時まで温順《おとな》しく此処にいればそれでいいのだ」
「母さんや林さんが、此旅館に来ていらっしゃるなんて、先刻電話をかけたのは貴郎でしょう」
「それは貴女を捕虜《とりこ》にする手段さ」
「母さんか、林さんが貴郎の顔を見れば、きっと誰だか知っているに違いありません。貴郎は男の癖に真実《ほんとう》に卑怯です。若し母さんに怨恨《うらみ》があるなら、何故男らしく正面から来ないのです」
ビアトレスは段々と落着いてきた。彼女はじっと男の顔を視詰めながらいった。相手は五十を二つ三つ越した色の黒い大柄な男である。彼はそれには応えず、
「どれ、俺は出掛けるとしよう。俺が帰って来るまで昼寝でもしているが可い」といいながら、手早くビアトレスに猿轡《さるぐつわ》をはめて、部屋に続いた奥の寝室へ引立てた。
彼はビアトレスの手首を結んだ紐の先を、寝台へ括りつけた。
「いいかね、静かにしているんだ。若し騒立てて家へ逃帰ったりすれば、貴女のお母さんは生命を隕《おと》すことになるんだよ。解ったかね」男は境の扉を閉めて鍵を下すと、次の間で何やらゴトゴトやっていたが、廊下に面した扉に鍵の音をさせて、何処へか行って了った。
旅館の中は依然として無人の境のように静かであった。稍々《やや》西に廻った太陽が、赤く窓の桟の上に光を落していた。
ビアトレスは身動きも出来なかった。仮令《たとえ》彼女が死力を尽して猿轡を噛切り、縄を抜けたところで、男の残していった言葉が気になって、迂闊《うかつ》な事も出来ないように思われた。男の言葉はありふれた脅喝《おどかし》かも知れないが、どうやら彼の態度には真実を語っているらしい意味有りげな様子が見えていた。
ビアトレスは眼を閉じて、軽卒にも知らぬ男の電話にかかって、此ような旅館へ監禁された不甲斐なさを、今更のように歯癢《はがゆ》く思った。
四
坂口はクロムウェル街を出て、V停車場を通りかかると、自動車から降りたエリスがあたふたと銀行の中へ入って行くのを見た。
坂口はビアトレスの口から、エリスの此数日来の振舞を聞いていたのと、そそくさと銀行へ入っていった様子が、如何にも訝《いぶか》しく思われたので、踵《きびす》を返して彼女の後に附随《つきしたが》った。
エリスは五百|磅《ポンド》の金を引出すと、直に表へ出た。坂口は背後から声をかけたが、エリスは一向気が附かぬらしく、待たせてあった自動車に乗って疾走《はし》り去った。
坂口は首を傾げながら、ベースウオーター街の自宅へ帰った。心待ちにしていた伯父からの手紙も来ていず、ブラインドを下したままの部屋は暗くて陰気であった。
彼は窓に近い長椅子の上に横になって、ややもすると引入れられるような不安な心持を紛らす為に、積重ねた雑誌類を手当り次第に拾読していた。と、突然玄関の呼鈴《ベル》が鳴った。坂口は椅子から飛起きて扉を開けに行った。
そこにはひどく周章《あわ》てた様子でエリスが立っていた。
「貴郎大変です。ビアトレスが何処かへ行って了《しま》いました。私がいま他所から帰りますと、女中に宛てた置手紙があって、それには私から電話がかかったので外出すると、書いてあるのです。私は決して娘に電話をかけたことはありません。吃度何者かに誘拐されたのです」
坂口は顔色を変えて言葉もなくエリスの顔を視詰めた。
「林さんはいらっしゃいますか」とエリスは気忙しく訊ねた。
「イイエ、不在です。今朝早く何処かへ出掛けました。夜分には帰って来る
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