P丘の殺人事件
松本泰

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)倫敦《ロンドン》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)日本人|贔負《びいき》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いて
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        一

 火曜日の晩、八時過ぎであった。ようやく三ヶ月計り前に倫敦《ロンドン》へ来た坂口《さかぐち》はガランとした家の中で、たったひとり食事を済すと、何処という的《あて》もなく戸外へ出た。
 日はとうに暮れて、道路の両側に並んだ家々の窓には、既に燈火が点いていた。公園に近いその界隈は、昼間と同じように閑静であった。緑色に塗った家々の鉄柵が青白い街灯の光に照らされている。
 大方の家は晩餐が終ったと見えて、食器類を洗う音や、女中の軽い笑声などが、地下室の明るい窓から洩れていた。ある家では表玄関と並んだ窓を一杯に開けて、若い娘がピアノを弾いていた。またある家では二階の窓際に置いてある鉢植の草花に、水をやっている華奢《きゃしゃ》な女の手首と、空色の着物の袖だけが見えていた。
 坂口は生れつきの気質から、賑かな市街を離れて、誰人に妨げられることもなく、黙々としてそうした甃石《しきいし》の上を歩くのが好きであった。彼の心は丁度古い邸宅の酒窖《さかぐら》に置棄られた酒樽の底のように静かで、且つ陰鬱であった。
 坂口は家を出た時から、伯父の事を考えていた。もともと伯父は寡口《むくち》で、用の他は滅多に口を利かない程の変人であった。五十の坂を越しても未だに独身で、巨満の富を持っている。そして一二年前から、公園に近いベースウオーター街に、現在の家を買って、何をするともなく日を暮している。
 それだけでも既に不可解であるのに、此数日は食事の時間も不在勝で、何時家を出て、いつの間に帰って来るのか、それさえ判らなかった。坂口はたった一人の伯父の、そうした孤独な振舞を考えていると、一層沈んだ心持になってくるのであった。
 快い夜風が彼の頬を吹いていった。
 足は自然にクロムウェル街に向う。其処には伯父の旧い友達でエリス・コックスという婦人の家があった。伯父はエリスがチルブリー船渠《ドック》に遠からぬチャタムに住んでいた頃からの友達であった。
 エリスの良人は珍らしい日本人|贔負《びいき》であった。凡そ日本の汽船でテームス川を溯ったほどの船員は、誰一人としてコックス家を知らぬものはなかった。永い単調な航海の後で、初めて淋しい異郷の土を踏んだとき、門戸を開放し、両手を拡げて歓び迎えてくれるコックス家を、彼等はどんなに感謝したことであろう。
 彼等はよく招かれてコックス家の客となった。船員仲間はそこを「水夫の家」と呼んでいた。
 それは二昔も以前の事である。ある年「水夫の家」の父は突然病を得て倒れて了《しま》った。後に残った若く美しい母は、生れた計りの女の子を抱えて、しばらく其土地に暮していたが、そのうち屋敷を全部売払って、現在のクロムウェル街に住むようになったのである。
 坂口は伯父とエリスがどのような関係にあるのかは少しも知らない。永い間海員生活をしていた伯父は、若い頃から幾度となく、英国と日本の間を航海していたが、つい二三年前に汽船会社を辞して了った。そして世間を離れて少時東京の郊外に仮寓していたが、何を感じたか、飄然と倫敦へ移ってきたのである。
 多くも無い親戚ではあるが、同じ甥や姪のうちでも、伯父はとりわけ坂口を愛していた。そのような訳で、坂口は予《かね》てからの希望通り倫敦へ来て、伯父と一緒に住む事を許されたのである。
 坂口は曾つて伯父の笑った顔を見たことはなかったが、伯父は親切で優しかった。坂口はそれだけ伯父の生活が寂しく思われてならなかった。倫敦へ来て親しく伯父に接するにつけて、頼りない伯父の身を気遣い、他所ながら面倒を見ようという殊勝な心持を深めていった。
「事によると、エリスさんの家にいるかも知れない」街の角に差かかった時、坂口は独言を云ったが、急に顔が熱《ほて》って来るのを感じた。
 コックス家にはビアトレスという、美しい一人娘がある。坂口が倫敦へ着いて間もなく、伯父と共に晩餐に招ばれたのは、このビアトレスの家であった。従って彼が若い女性と言葉を交えたのは、彼女が始めてであった。
 鉄柵を繞《めぐ》らした方園《スクエア》の樹木が闇の中に黒々と浮上っている。傾きかかった路傍の街燈が、音をたてて燃えていた。坂口の歩いてゆく狭隘《せま》い行手の歩道は、凹凸が烈しかった。
 彼は方園《スクエア》を過ぎて、心もち弓なりになったクロムウェル街を、俯向きながら歩いていると、すぐ五六間先の敷石の上に倒れている女の姿を見付けた。夫《そ》れは丁度コックス家の前あたりであった。坂口は喫驚《びっくり》して馳寄った。女は黒っぽい着物の裾を泥|塗《まみ》れにして、敷石の上に蹲《うずくま》っていた。
「どうかなさいましたか」坂口は傍へ寄って抱起した。
 女は弱切ったような声で、頻《しき》りに、
「水、水」と叫んでいる。
 幸いコックス家の前であったので、坂口は女の傍を離れて、石段を上ろうとすると、玄関の扉を開いて、若いビアトレスが顔を出した。
「今晩は、私です。今お宅の前へ参りますと、その方が倒れていたのです。それで、水を戴きに行こうと思ったのです」と、坂口がいうと、ビアトレスは美しい眉を顰《ひそ》めて、幾度も頷首《うなず》きながら、石段を下りて女のそばへ寄った。その間に坂口は台所へ行って、コップに水を汲んできた。
 女は強《したた》か酒に酔っているらしかった。
 坂口とビアトレスは互に顔を見合せたが、女は膝に怪我をしている様子なので、一先ず家の中へ扶《たす》け入れる事にした。
 その物音に、エリスは二階から下りてきた。彼女は台所から馳上って来た女中にいろいろ指図を与えたあとで愛想よく坂口の方に手を差延べながら、
「よく来ました。さアどうぞこちらへお入り下さい」といってイソイソと玄関わきの居間へ導いた。
「あの女を助けてやったのは貴郎《あなた》ですってね。本統にお若いのに感心です。怪我はしていないようですが、あの女は大分お酒を飲過ぎて苦しんでいますから、ちっと休ませてやりましょう」エリスは同情《おもいやり》深い調子でいった。
 紺サージの着物に、紅い柘榴《ざくろ》石の頸飾りをした彼女のスッキリした姿は、どうしても五十を越したとは見えなかった。
 薄い藤紫の覆布《かさ》をかけた電燈の光が、柔く部屋の中に溢れている。霎時《しばらく》するとビアトレスが扉をあけて入ってきた。
「三階に空いた寝床《ベッド》がありますから、連れて行って寝かしてやりましたわ。服装は相当にちゃんとしているのね。あんなにお酒に酔ってどうしたのでしょう。今晩は宿《と》めてやりましょうか」
「そうですね、年をとっているし、可哀そうだから、そうしてお上げなさい」
「あの方の家に電話でもあれば、こっちから電話をかけて置いて上げるのですが、何しろ満足に口が利けない程ですの」
 三人の話題は一しきりその女のことに及んだが、エリスは話題を変えて、二三日姿を見せぬ伯父の消息を訊ねたり、倫敦の生活は好きかなどときいた。
 伯父はコックス家より他に、訪ねる友達を持っていないことを、坂口はよく知っていた。それ故、今頃伯父は何処で、何をしているのかといささか気になってきた。
 坂口がコックス家を辞して家へ帰ったのは十時近かった。重い玄関の扉を開けて、しんとしたホールを通ってゆくと、伯父の書斎に電燈が点いていた。彼は、
「オヤ、既《も》うお帰宅《かえ》りになったな」と思いながら、軽く扉を叩いたが、一向応答がない。そこで恐る恐る扉を開けて、中を覗いてみた。
 部屋はきちんと整理《かたづ》いて、明るい電燈が空しく四辺を照らしている。伯父の姿は何処にも見当らなかった。
「先刻家を出るときは、確に電燈が点いていなかったから、私の不在の間に、一ぺんお帰りになったと見える」彼は念のためにホールの鏡の前にいって、平常のステッキと、帽子の置いてないのを確めてから、伯父の書斎へ戻ってきた。
 フト気が付くと、卓子の上に坂口に宛てた伯父の手紙が置いてある。彼は胸騒ぎを覚えながら、手早く封を切って読下した。

 前略小生急用出来候ため、S地方へ旅行致すべく候。四五日は帰宅の程、覚束なく候えども、御心配御無用に御座候。尚小生今回の旅行は絶対に秘密を要するものに候間、左様お含み下され度候。
   順三郎どの  林

        二

 不可解な伯父の手紙を坂口は幾度も繰返した。インキの乾き加減や、電球の温度から考えても、伯父が家を出たのは僅々三十分も前の事と思われた。これからすぐ自動車で停車場へ馳付ければ、伯父に会う事が出来ると思ったが。伯父の気質を知っている彼は、そのような事をしたところで、叱られこそすれ、思立った伯父の旅行を引止め得るとは思わなかった。
 坂口は伯父の手紙に記された、急用、秘密、などという言葉を不思議に思った。伯父は別段商売に投資している訳でもなく、財産の幾部分を日本の営利会社の株券に換えて持っているだけで、財産全部は悉《ことごと》く銀行へ預入れてある。それ故商人に有勝ちな急用で、旅行云々などとは受取れぬ話である。殊に規律の正しい伯父が、旅行先を明記しないのも訝《おか》しい。のみならず他人とは交渉を持たない伯父の生活に、秘密のありよう筈はなかった。
 坂口は二階の暗い寝床の中で、まじまじと伯父の身の上を案じていた。
 燈火を消した室内に、戸外の街燈の光が、ぼんやりと射込んでいる。夜が次第に更けていった、坂口の疲労《つか》れた眼瞼《まぶた》に、フト伯父の顔が映った。続いて品の好いエリスの姿が浮んだ。と思うと急に伯父が二十年も若返ってデップリ肥満《ふと》った体躯を船長の制服《ユニホーム》に包んで、快活らしく腕組をしている姿になった。それと共に、船着場に近い穏かな街の景色が見えた。それはまるで坂口の知らない光景であった。青々と伸びた楊柳《やなぎ》の葉がくれに、白く塗った洋館が見えてきた。仏蘭西《フランス》窓に凭《よ》りかかって、豊頬に微笑を浮べながら、遠くの澄んだ空を見上げているのはエリスであった。そのうちに伯父の顔はいつか、坂口自身になり、エリスの顔は緑色のブラウスを着た甲斐甲斐しいビアトレスの姿になった。
 坂口は軈《やが》て華胥《ねむり》の国に落ちて了った。
 翌朝彼が目を醒したのは、九時を過ぎていた。麗かな太陽の光が、枕元のガラス窓を訪ずれていた。薔薇の咲く裏の芝生《ローン》に青い鳥が来て、長閑《のどか》な春の歌を唄っていた。
 坂口は食事を済ませてから、コックス家を訪ねた。昨夜《ゆうべ》の女のことが気に掛っていた。それに置手紙をして、昨夜一晩帰って来なかった伯父のことを思うと、じっとして家にいることが出来なかった。
 丁度十一時である。彼は女中の開けてくれた玄関を入った。ホールの突当りに在る書斎は開放しになって、そこから庭に続く石段の手摺や、緑色の芝生が見えていた。
 書斎のベランダに置かれた鳥籠の中で、薄桃色と青とで彩色《いろど》ったような鸚鵡《おうむ》が、日光を浴びながら羽ばたきをして、奇声を上げている。
 窓わきに椅子を寄せて、頻りに編物をしていたビアトレスは坂口の姿を見ると、微笑《わらい》ながら立ってきた。
「オヤ、誰かと思ったら貴郎なの、よくいらしってね。随分いい季節になったのね。貴郎はお好きでしょう」
「エエ、散歩には上等です」坂口は相手が笑いながらじっと視詰めているので、聊《いささ》か固くなって答えた。
「戸外はいいでしょう。ほんとに男の方は羨しいわ。何処へでも自由に行けるのですもの」
「女だって、何処へでも自由に行けると思いますがね」
「アラ、そうはゆかないわ。でも母さんはよくお出掛けになる
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