に、水をやっている華奢《きゃしゃ》な女の手首と、空色の着物の袖だけが見えていた。
坂口は生れつきの気質から、賑かな市街を離れて、誰人に妨げられることもなく、黙々としてそうした甃石《しきいし》の上を歩くのが好きであった。彼の心は丁度古い邸宅の酒窖《さかぐら》に置棄られた酒樽の底のように静かで、且つ陰鬱であった。
坂口は家を出た時から、伯父の事を考えていた。もともと伯父は寡口《むくち》で、用の他は滅多に口を利かない程の変人であった。五十の坂を越しても未だに独身で、巨満の富を持っている。そして一二年前から、公園に近いベースウオーター街に、現在の家を買って、何をするともなく日を暮している。
それだけでも既に不可解であるのに、此数日は食事の時間も不在勝で、何時家を出て、いつの間に帰って来るのか、それさえ判らなかった。坂口はたった一人の伯父の、そうした孤独な振舞を考えていると、一層沈んだ心持になってくるのであった。
快い夜風が彼の頬を吹いていった。
足は自然にクロムウェル街に向う。其処には伯父の旧い友達でエリス・コックスという婦人の家があった。伯父はエリスがチルブリー船渠《ドック》に遠か
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