坂口は二階の暗い寝床の中で、まじまじと伯父の身の上を案じていた。
燈火を消した室内に、戸外の街燈の光が、ぼんやりと射込んでいる。夜が次第に更けていった、坂口の疲労《つか》れた眼瞼《まぶた》に、フト伯父の顔が映った。続いて品の好いエリスの姿が浮んだ。と思うと急に伯父が二十年も若返ってデップリ肥満《ふと》った体躯を船長の制服《ユニホーム》に包んで、快活らしく腕組をしている姿になった。それと共に、船着場に近い穏かな街の景色が見えた。それはまるで坂口の知らない光景であった。青々と伸びた楊柳《やなぎ》の葉がくれに、白く塗った洋館が見えてきた。仏蘭西《フランス》窓に凭《よ》りかかって、豊頬に微笑を浮べながら、遠くの澄んだ空を見上げているのはエリスであった。そのうちに伯父の顔はいつか、坂口自身になり、エリスの顔は緑色のブラウスを着た甲斐甲斐しいビアトレスの姿になった。
坂口は軈《やが》て華胥《ねむり》の国に落ちて了った。
翌朝彼が目を醒したのは、九時を過ぎていた。麗かな太陽の光が、枕元のガラス窓を訪ずれていた。薔薇の咲く裏の芝生《ローン》に青い鳥が来て、長閑《のどか》な春の歌を唄っていた。
坂口は食事を済ませてから、コックス家を訪ねた。昨夜《ゆうべ》の女のことが気に掛っていた。それに置手紙をして、昨夜一晩帰って来なかった伯父のことを思うと、じっとして家にいることが出来なかった。
丁度十一時である。彼は女中の開けてくれた玄関を入った。ホールの突当りに在る書斎は開放しになって、そこから庭に続く石段の手摺や、緑色の芝生が見えていた。
書斎のベランダに置かれた鳥籠の中で、薄桃色と青とで彩色《いろど》ったような鸚鵡《おうむ》が、日光を浴びながら羽ばたきをして、奇声を上げている。
窓わきに椅子を寄せて、頻りに編物をしていたビアトレスは坂口の姿を見ると、微笑《わらい》ながら立ってきた。
「オヤ、誰かと思ったら貴郎なの、よくいらしってね。随分いい季節になったのね。貴郎はお好きでしょう」
「エエ、散歩には上等です」坂口は相手が笑いながらじっと視詰めているので、聊《いささ》か固くなって答えた。
「戸外はいいでしょう。ほんとに男の方は羨しいわ。何処へでも自由に行けるのですもの」
「女だって、何処へでも自由に行けると思いますがね」
「アラ、そうはゆかないわ。でも母さんはよくお出掛けになるけれども」ビアトレスは冗談らしくそう云ったが、急に不安らしい顔付をして、何やら考込んで了った。
「小母さんはお不在ですか。そして昨夜の女はどうしました」
「ああ、あの方はエドワード夫人というのですって、もうすっかり元気を快復して、今朝は私達と一緒に朝御飯を喰べました。今しがたまで、その辺に見えましたが、大方三階へいったのかも知れません。じき下りて来るでしょう」ビアトレスがいっているところへ、噂のエドワード夫人が血色の勝れない顔をして入ってきた。
「昨夜は本統に、御世話をかけて済みませんでした。お蔭様で助かりました」
「お礼には及びません。でも御元気になられて結構です」と坂口がいった。
エドワード夫人はビアトレスに向っていった。
「お嬢様、誠に有難うございました。宿のものが心配しているといけないから、一旦|自家《うち》へ帰りまして、改めてお礼に伺います。お母様がお帰宅になったら、どうぞ宜しく申上げて下さい」
「そうですか、では気をつけてお帰りなさいね。お宅はモルトン町だそうですから、そんな遠い所から、わざわざ出直していらっしゃらないでもよろしゅうございますわ。お宅へ帰って悠《ゆっく》りお休息《やすみ》なさい」ビアトレスは劬《いたわ》るようにいった。
エドワード夫人は間もなく家を出ていった。
書斎のベランダでは、鸚鵡が喧ましく女中の名前を呼んでいる。二人は別々の事を考えながら、霎時《しばらく》黙って椅子にかけていた。
「林小父さんは此頃どうしていらしって?」編物を膝へ置いて、硝子《ガラス》戸越しにぼんやりと戸外を眺めていたビアトレスは、突然声をかけた。
「伯父ですか、……別に平常と変った事はないと思いますが、……」
「そうなの、家の母さんは此五六日ほんとに様子が訝《おか》しいのよ。貴郎はそれに気がお付きになって?」
「そう仰有《おっしゃ》れば、昨夜も何だかソワソワして、淋しそうにしていらしったと思います」
「エエ、本統にそうなの、私何だか心配で仕方がないのよ。そして不思議な事には、此節しげしげと、何処からか手紙が参りますの、その度に母さんは悲しそうに溜息をしていらっしゃるわ」
「母さんは其事に就ては、何事も貴女に仰有いませんか」坂口は怪訝《いぶかし》そうに相手の顔を視守った。
「エエ、私は心配になって、度々その訳をお訊きするのですけれども、その事に就ては何も仰有ら
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