ず、手紙が来ることさえ、私に隠匿《かく》そうとなすっていらっしゃるのよ。何か凶《わる》い事でも起ったのではないでしょうか」
 ビアトレスの言葉を聞いて、坂口は前夜伯父の書残していった不思議な置手紙を思出した。彼はその事が危く口に出かかったが、気がついて口を噤《つぐ》んでしまった。
「ビアトレスさん、余り心配なさらないがいいです。伯父さんもいることですから、小母さんの為には、どんな事でもして吃度《きっと》小母さんの御心配を取除くに違いありません。然し一体それはどんな手紙でしょう」
 坂口は霎時していった。
「今迄私の見た事のない筆蹟で、それがみんな、同じ人から来るらしいのよ。母さんは女中にさえ、手紙の上書を見られるのを厭がっていらっしゃるのです。今朝もエドワード夫人が手紙を受取って、母さんのところへ持っていったら、平常の母さんに似合わず、引奪《ひったく》るようにしてそれを持って、二階へ引込んでおしまいなすったのです」
「それは林伯父さんの手紙ではありませんか」
「真逆《まさか》そんな事はないわ。無論、男の筆蹟には違いありませんが、小父さんとは違ってよ」
「そんなに度々何処から手紙が来るのか知ら……お待ちなさい、私も考案《かんがえ》がある」
「どんな事?」
「小母さんの後を尾行《つ》ければ、きっと手紙の差出人が判明《わか》ると思います」
「貴郎、そんな事をして若しそれが、万一母さんの為に悪い事だったらどうしましょう」ビアトレスは周章《あわ》てて押止めた。
「そんな事は必ずあるまいと思いますが……それでは伯父の力を借ります」
「どうぞ左様《そう》して下さい。小父さんなら必《き》っと何とかして下さると思います。母さんは本統にお可哀そうなのです」
 ビアトレスは一年一年と年をとってゆく母の淋しい様子を思浮べて、大きな眼に涙を浮べた。坂口も何をいう術もなく黙込んで、兎《と》もすれば誘込まれそうな泪を、じっと耐《こら》えていた。そして何にもない窓の上部に目をやっていたが、それから霎時して故意《わざ》と元気よく別を告げて、ビアトレスの家を出た。

        三

 ビアトレスは坂口を玄関まで送って、再び居間へ戻ると、突然けたたましくホールの電話が鳴出した。生憎《あいにく》女中が買物に出た不在であったから、ビアトレスが電話口に出た。
 先方の男は叮寧《ていねい》な言葉でいった。
「私はコックス夫人から御伝言を頼まれたものですが、お嬢様に鳥渡《ちょっと》電話口まで出て頂きたいのです」
「私が娘のビアトレスです。貴郎は何誰《どなた》?」
「ハイ、私はパーク旅館《ホテル》の給仕ですが、コックス夫人と林様がこちらで食事をなさるから、貴方様も直ぐいらっしゃるようにと申す事でございます」
「何ですって? 母さんと林さんが何処に居ると仰有《おっしゃ》るのですか」
「こちらは旅館にお滞在《とまり》になっている日本の紳士で近藤様と仰有る方とお三人でございます」
「何旅館とか云いましたね。……電話が遠いのでよく聞えないのです……エエ? パーク旅館?……ああ判りました、パーク旅館ですね。……はアそうですか、百二十八号室は五階ですか……では直ぐ参ります」ビアトレスは電話をきって、イソイソと二階の寝室へ馳上った。
 それから数分後に寝室を出てきたビアトレスは、菫色の繻子《サテン》の、袖口や裾に、黒をあしらった衣服を着て、見違える程美しくなっていた。彼女は浮々した様子で階段を馳下りると、女中を捜すために地下室へ行ったが、まだ使にいって帰って来なかった。
 ビアトレスは舌打ちをしながら、壁に掛っている時計を見上げたが、いつ戻って来るか判らない女中を、的も無く待っていても仕方がないと思って、置手紙をして出掛ける事にした。彼女は紙片の端に、母から電話がかかったので食事に行くから、其積りでいてくれ、と鉛筆で走書をすると、それを台所の卓子の上へ乗せて置いて急いで家を出た。
 ビアトレスは町の角からタクシーに乗って、H公園に近いパーク旅館に急がせた。
 軈《やが》て旅館へ着いた。彼女は自動車を下りて賃金を払うと、電話で教えられた通り、入口の左側にある昇降機《リフト》室へ入った。
 ビアトレスが五階へ運ばれて、廊下へ出た時には、四辺に人影がなかった。広い旅館の中はしん[#「しん」に傍点]として何の物音も聞えない。彼女は部屋の扉の上に記された番号を数えながら、足を運んでゆくと、純白なリンネルの上衣を着た給仕が前方からやってきた。
「百二十八号室をお尋ねでいらっしゃいますか」男は小腰を屈めながらいった。
「左様《そう》です。そこへ連れて行って下さい」
「ハイ、畏《かしこま》りました。どうぞ此方へいらしって下さい」男は先に立って、とある部屋の前まで来ると、
「ここでございます」といって
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