一足後に退った。
 ビアトレスは軽く会釈をして、手をかけた把手《ハンドル》を廻しながら、扉を開けた瞬間、背後《うしろ》に立っていた給仕が突然《いきなり》躍り蒐《かか》った。
「呀《あっ》!」と云う間もなく、ビアトレスは両腕を捩上げられて了った。
 云うまでもなく部屋には誰一人いない。恐ろし気な顔をした給仕が、ドキドキする細長いナイフを、ビアトレスの鼻先に突つけている。彼女は努めて平静を装って、
「お前はこんな手荒な事をしてどうしようというの? 私の生命を奪《と》ろうというの?」と叫んだが、余りの怖ろしさにワナワナと体躯を慄わせていた。
 相手はビアトレスの手首を後手に括《くく》って了うと、薄気味悪く微笑いながらいった。
「静かにさえしていれば、そんな虞《おそれ》はない。まア少しの間、その椅子にでも腰をかけて気を落着けるが可い」
「貴郎は一体何者です。私の持っているものが欲しいなら、指輪でも、首飾りでも、皆あげますから、私を外へ出して下さい」とビアトレスがいうと、男は落着払って答えた。
「今に当方の用事が済んだら出してあげるよ。ここまで来て了えば、いくら騒いでも到底|遁《のが》れる事は出来ないのだから、その積りで諦めるが可い。別に心配する事はない。晩の十時まで温順《おとな》しく此処にいればそれでいいのだ」
「母さんや林さんが、此旅館に来ていらっしゃるなんて、先刻電話をかけたのは貴郎でしょう」
「それは貴女を捕虜《とりこ》にする手段さ」
「母さんか、林さんが貴郎の顔を見れば、きっと誰だか知っているに違いありません。貴郎は男の癖に真実《ほんとう》に卑怯です。若し母さんに怨恨《うらみ》があるなら、何故男らしく正面から来ないのです」
 ビアトレスは段々と落着いてきた。彼女はじっと男の顔を視詰めながらいった。相手は五十を二つ三つ越した色の黒い大柄な男である。彼はそれには応えず、
「どれ、俺は出掛けるとしよう。俺が帰って来るまで昼寝でもしているが可い」といいながら、手早くビアトレスに猿轡《さるぐつわ》をはめて、部屋に続いた奥の寝室へ引立てた。
 彼はビアトレスの手首を結んだ紐の先を、寝台へ括りつけた。
「いいかね、静かにしているんだ。若し騒立てて家へ逃帰ったりすれば、貴女のお母さんは生命を隕《おと》すことになるんだよ。解ったかね」男は境の扉を閉めて鍵を下すと、次の間で何やらゴトゴトやっていたが、廊下に面した扉に鍵の音をさせて、何処へか行って了った。
 旅館の中は依然として無人の境のように静かであった。稍々《やや》西に廻った太陽が、赤く窓の桟の上に光を落していた。
 ビアトレスは身動きも出来なかった。仮令《たとえ》彼女が死力を尽して猿轡を噛切り、縄を抜けたところで、男の残していった言葉が気になって、迂闊《うかつ》な事も出来ないように思われた。男の言葉はありふれた脅喝《おどかし》かも知れないが、どうやら彼の態度には真実を語っているらしい意味有りげな様子が見えていた。
 ビアトレスは眼を閉じて、軽卒にも知らぬ男の電話にかかって、此ような旅館へ監禁された不甲斐なさを、今更のように歯癢《はがゆ》く思った。

        四

 坂口はクロムウェル街を出て、V停車場を通りかかると、自動車から降りたエリスがあたふたと銀行の中へ入って行くのを見た。
 坂口はビアトレスの口から、エリスの此数日来の振舞を聞いていたのと、そそくさと銀行へ入っていった様子が、如何にも訝《いぶか》しく思われたので、踵《きびす》を返して彼女の後に附随《つきしたが》った。
 エリスは五百|磅《ポンド》の金を引出すと、直に表へ出た。坂口は背後から声をかけたが、エリスは一向気が附かぬらしく、待たせてあった自動車に乗って疾走《はし》り去った。
 坂口は首を傾げながら、ベースウオーター街の自宅へ帰った。心待ちにしていた伯父からの手紙も来ていず、ブラインドを下したままの部屋は暗くて陰気であった。
 彼は窓に近い長椅子の上に横になって、ややもすると引入れられるような不安な心持を紛らす為に、積重ねた雑誌類を手当り次第に拾読していた。と、突然玄関の呼鈴《ベル》が鳴った。坂口は椅子から飛起きて扉を開けに行った。
 そこにはひどく周章《あわ》てた様子でエリスが立っていた。
「貴郎大変です。ビアトレスが何処かへ行って了《しま》いました。私がいま他所から帰りますと、女中に宛てた置手紙があって、それには私から電話がかかったので外出すると、書いてあるのです。私は決して娘に電話をかけたことはありません。吃度何者かに誘拐されたのです」
 坂口は顔色を変えて言葉もなくエリスの顔を視詰めた。
「林さんはいらっしゃいますか」とエリスは気忙しく訊ねた。
「イイエ、不在です。今朝早く何処かへ出掛けました。夜分には帰って来る
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