きながら歩いていると、すぐ五六間先の敷石の上に倒れている女の姿を見付けた。夫《そ》れは丁度コックス家の前あたりであった。坂口は喫驚《びっくり》して馳寄った。女は黒っぽい着物の裾を泥|塗《まみ》れにして、敷石の上に蹲《うずくま》っていた。
「どうかなさいましたか」坂口は傍へ寄って抱起した。
女は弱切ったような声で、頻《しき》りに、
「水、水」と叫んでいる。
幸いコックス家の前であったので、坂口は女の傍を離れて、石段を上ろうとすると、玄関の扉を開いて、若いビアトレスが顔を出した。
「今晩は、私です。今お宅の前へ参りますと、その方が倒れていたのです。それで、水を戴きに行こうと思ったのです」と、坂口がいうと、ビアトレスは美しい眉を顰《ひそ》めて、幾度も頷首《うなず》きながら、石段を下りて女のそばへ寄った。その間に坂口は台所へ行って、コップに水を汲んできた。
女は強《したた》か酒に酔っているらしかった。
坂口とビアトレスは互に顔を見合せたが、女は膝に怪我をしている様子なので、一先ず家の中へ扶《たす》け入れる事にした。
その物音に、エリスは二階から下りてきた。彼女は台所から馳上って来た女中にいろいろ指図を与えたあとで愛想よく坂口の方に手を差延べながら、
「よく来ました。さアどうぞこちらへお入り下さい」といってイソイソと玄関わきの居間へ導いた。
「あの女を助けてやったのは貴郎《あなた》ですってね。本統にお若いのに感心です。怪我はしていないようですが、あの女は大分お酒を飲過ぎて苦しんでいますから、ちっと休ませてやりましょう」エリスは同情《おもいやり》深い調子でいった。
紺サージの着物に、紅い柘榴《ざくろ》石の頸飾りをした彼女のスッキリした姿は、どうしても五十を越したとは見えなかった。
薄い藤紫の覆布《かさ》をかけた電燈の光が、柔く部屋の中に溢れている。霎時《しばらく》するとビアトレスが扉をあけて入ってきた。
「三階に空いた寝床《ベッド》がありますから、連れて行って寝かしてやりましたわ。服装は相当にちゃんとしているのね。あんなにお酒に酔ってどうしたのでしょう。今晩は宿《と》めてやりましょうか」
「そうですね、年をとっているし、可哀そうだから、そうしてお上げなさい」
「あの方の家に電話でもあれば、こっちから電話をかけて置いて上げるのですが、何しろ満足に口が利けない程ですの」
三人の話題は一しきりその女のことに及んだが、エリスは話題を変えて、二三日姿を見せぬ伯父の消息を訊ねたり、倫敦の生活は好きかなどときいた。
伯父はコックス家より他に、訪ねる友達を持っていないことを、坂口はよく知っていた。それ故、今頃伯父は何処で、何をしているのかといささか気になってきた。
坂口がコックス家を辞して家へ帰ったのは十時近かった。重い玄関の扉を開けて、しんとしたホールを通ってゆくと、伯父の書斎に電燈が点いていた。彼は、
「オヤ、既《も》うお帰宅《かえ》りになったな」と思いながら、軽く扉を叩いたが、一向応答がない。そこで恐る恐る扉を開けて、中を覗いてみた。
部屋はきちんと整理《かたづ》いて、明るい電燈が空しく四辺を照らしている。伯父の姿は何処にも見当らなかった。
「先刻家を出るときは、確に電燈が点いていなかったから、私の不在の間に、一ぺんお帰りになったと見える」彼は念のためにホールの鏡の前にいって、平常のステッキと、帽子の置いてないのを確めてから、伯父の書斎へ戻ってきた。
フト気が付くと、卓子の上に坂口に宛てた伯父の手紙が置いてある。彼は胸騒ぎを覚えながら、手早く封を切って読下した。
前略小生急用出来候ため、S地方へ旅行致すべく候。四五日は帰宅の程、覚束なく候えども、御心配御無用に御座候。尚小生今回の旅行は絶対に秘密を要するものに候間、左様お含み下され度候。
順三郎どの 林
二
不可解な伯父の手紙を坂口は幾度も繰返した。インキの乾き加減や、電球の温度から考えても、伯父が家を出たのは僅々三十分も前の事と思われた。これからすぐ自動車で停車場へ馳付ければ、伯父に会う事が出来ると思ったが。伯父の気質を知っている彼は、そのような事をしたところで、叱られこそすれ、思立った伯父の旅行を引止め得るとは思わなかった。
坂口は伯父の手紙に記された、急用、秘密、などという言葉を不思議に思った。伯父は別段商売に投資している訳でもなく、財産の幾部分を日本の営利会社の株券に換えて持っているだけで、財産全部は悉《ことごと》く銀行へ預入れてある。それ故商人に有勝ちな急用で、旅行云々などとは受取れぬ話である。殊に規律の正しい伯父が、旅行先を明記しないのも訝《おか》しい。のみならず他人とは交渉を持たない伯父の生活に、秘密のありよう筈はなかった。
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