ったのでしょう。伯父がいつになく旅行するといって前の晩から家へ帰らなかったのも不思議です」
二人は言葉を止めて、各自別々の事を慮《かんが》え初めた。
坂口は伯父の日頃の気質から、彼が恐ろしい殺人罪を犯したとはどうしても信じられなかった。永く外国の生活をしている程の伯父であるから、或は拳銃《ピストル》の一挺位は所持《も》っていたかも知れないが、それにしてもついぞ伯父の拳銃を見た事はない。……けれども又一方に、伯父が今日まで独身生活を続けているその理由を段々解して来たように思った。……伯父はエリスを愛している。世界中の誰よりもエリスを愛している。愛するものの為ならば、人間はどのような犠牲をも払う事が出来る……彼はそう思って慄然とした。ビアトレスはブラウスの襟に顎を埋めて、呆然《ぼんやり》と、足下の床に視線を落していた。彼女は別の世界に引込まれて行くような、頼りない心持になっていた。何かなしに、警察へいったきり母親はもう帰って来ないように考えられてならなかった。彼女は慌ててそれを打消そうと努めたが、払っても、払っても、次から次に浮んでくる不吉な幻影が一層彼女の心を重くした。そして今朝母親が家を出て行った時の悲しげな眼眸《まなざし》が、いつまでも目先にチラついているのであった。
ビアトレスは母親が林に対して抱いている心持を知っていた。そして母親が殺された其男を呪い、醜い記憶を持った間柄をどんなに秘《かく》していたかを知っていた。
坂口とビアトレスはフト目を見合せたが、二人は窓の外に眼を背《そら》してしまった。
クッキリと黄色い光線を浴《あ》びている甃石の上は、日蔭よりも淋しかった。青空も、往来も、向う側の家々も、黒眼鏡を通して見るように明瞭《はっきり》として、荒廃《さび》れて見えた。
間もなくエリスが死人のような顔色をして入って来た。
「ああ、既《も》う駄目です。すべてが終りです」エリスは力なく椅子に着いてさめざめと泣いた。
「小母さん、伯父はどうなりました」坂口は急込《せきこ》んで訊ねた。
「林さんにお目に掛る事は許されませんでしたが、林さんはすっかり自白して罪を承認したいという事です」エリスは泣※[#「口+厄」、第4水準2−3−72]《なきじゃく》りをしながらいった。
「真実ですか、……然し私にはどうしても信じられません、……それで兇器はどうしました」
「拳
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